『連れ』-3
<i1104006/|50059>
第三章 草叢の記譜
僕は全身の毛穴が、一斉に逆立つのを感じた。
背後にゐるはずの女の気配が、あたかも最初から存在しなかつたかのやうに、夜の湿つた空気に溶けて消えてゐたのである。僕は肺腑の奥から這ひ上がるやうな悲鳴を噛み殺し、雨に濡れたアスファルトを蹴つて、夢中でその場を逃れ出した。
自宅の玄関へ飛び込み、鍵を三度回し、荒い息を吐きながら床に崩れ落ちた時、僕の脳裏を支配してゐたのは、純粋な物理的論理への絶望であつた。あの細い一本道で、雨を避ける遮蔽物もない場所で、しかも両手に重い荷物を抱へた小太りの女が、一瞬の瞬きの間に霧散するなどといふことが、果たして許されるのであらうか。
数日後、僕は職場の薄暗い喫煙室で、この一件を何気なく後輩に漏らした。それは、自らの理知が捉へた「妙な話」を、他人の哄笑によつて葬り去りたいといふ、僕の卑小な自己防衛の現れでもあつた。
しかし、僕の話を聞き終へた一人の後輩は、笑ふどころか、紙のやうに血の気の失せた貌で僕を凝視した。
「その話……僕も、別の人間から聞いたことがあります」
後輩が語るには、僕の体験した怪異と寸分違はぬ挿話が、既に別の知人の身にも降りかかつてゐたのである。
あの雨の夜、黒い服を纏つた女は、道行く人々を呼び止めては「連速」といふ名のマンションを探してゐると執拗に訴へるのだといふ。ある知人は、女の異様な粘りに気圧され、止むを得ず手近な紙片に詳細な道順を記して渡した。女は「有難うございます」と、例の氷のやうな微笑を残して闇へ消えたが、知人は後になつて、自分が教へた場所に果たして何があるのかが気にかかり、後日、その地点を訪ねてみたのだ。
「そこには、マンションなんて建つてゐないんです」
後輩は、喉を鳴らして言葉を続けた。
「先輩が導かれた空き地と、全く同じ座標であつたさうです。ただ、その土地の附近には、かつて不祥事を起して廃墟となつた、似た響きの名の建築物が計画されてゐたといふ噂もありますが、真相は依然として定かではありません。……しかし、その計画自体、何十年も前に立ち消えになつたはずのものなのです」
僕は戦慄した。
あの時、僕の掌の中にある電話機の地図に、鮮やかに赤い針を立てたのは、果たして衛星が宇宙から送り届けた正確な位置情報だつたのだらうか。
それとも、あの女の「思念」が、あるいはこの土地に染み込んだ「怨念」のやうなものが、近代科学の粋を集めたはずの仮想現実を侵食し、一時的に「存在せぬ場所」を捏造して見せたのだらうか。僕が指し示したあの草叢は、僕の眼には空き地に見えたが、あの女の眼には、あたたかな灯の点る妹の住処に見えてゐたのではないか。
今でも、僕は仕事の帰りにその附近を通りかかることがある。
昼間、陽光の下で見るその場所は、ただの殺風景な、枯れ草が風に揺れるだけのありふれた空き地に過ぎない。そこには、幽霊も化け物も居着くやうな湿つた陰影など、微塵も感じられないのである。
しかし、ひとたび雨の降る晩秋の夕暮れが訪れ、街燈が病人の眼差しのやうに鈍く輝き始めると、僕はその場所に、見えざる「影」の気配を感じずにはゐられない。
あの女は、今も誰かの背後にぴたりと寄り添ひ、存在しない「連速」といふ名の安住の地を求めて、この都会の隙間を彷徨してゐるに違ひない。彼女が抱へてゐるあの重い荷物は、果たして何であつたか。あるいは、彼女自身の執着の重みであつたのか。
――読者諸君。
もし貴方が雨の夜、手の平の中の地図に頼つて歩いてゐる時、ふと背後から「すみません」と声を掛けられたなら、どうか気を付け給へ。
貴方が親切心から導かうとしてゐるその場所は、果たしてこの現実の世界に実在する座標なのだらうか。あるいは、文明の理知が及ばぬ草生した虚無の中に、口を開けて待つてゐる「冥府」への入口ではないのだらうか。
僕の電話機の検索履歴には、今もあの夜検索した「連速」といふ二文字が、消え残つた醜悪な刺青のやうに、青白い光の中に記されてゐる。僕はそれを消去することが出来ずにゐる。それを消してしまへば、僕の背中に、再びあの女の「氷のやうなささやき」が戻つてくるやうな気がしてならないからである。
山の手の住宅街は、今夜もまた、銀鼠色の雨に煙つてゐる。
どこかで、誰かが、再びあの女の道連れとなつてゐるのではないか。……僕は、雨音の中に混じる、かすかな「ピチャリ」といふ一足分の足音に耳を澄ませながら、今日も独り、扉を固く閉ざすのである。




