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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
『連れ』

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『連れ』-2

挿絵(By みてみん)

第二章 背後の対話


 僕はその奇妙な女を案内すべく、再び細かな雨の降りしきる暗夜の中へと歩み出した。


 女は僕の斜め後ろ、左肩の後ろあたりにぴたりと影の如く寄り添ひ、重い荷物を抱へながら、驚くほど音もなくついてきた。僕の差す蝙蝠傘かうもりがさの端から滴り落ちる雨雫が、時折、彼女の黒いきぬに吸ひ込まれてゆく。


 「それにしても、文明の利器といふものは恐ろしいですね。手の平の中の絵図面に、行きたい場所がすべて記されてゐる……」


 女は、深い感銘を受けたかやうに低く呟いた。その声は、湿つた秋の夜気に溶け込み、僕の鼓膜にじつとりと絡みつく。会話の内容そのものは、極めて凡庸であり、何ら劇的な展開を予感させるものではなかつた。それは都会の片隅で交はされる、行きずりの親切に伴ふ退屈な世間話に過ぎなかつたはずである。


 「ええ、便利になりましたよ。昔のやうに、星や勘に頼つて迷ふこともありません」


 僕は前を向いたまま、事務的な口調で答へた。前方には電信柱の街燈が、病人の眼差しのやうに鈍く点滅してゐる。僕の傘に当たる雨音は、不規則なリズムを刻み、静まり返つた住宅街に虚ろな響きを立ててゐた。


 女の歩調は、僕の歩調と一分いちぶの狂ひもなく重なつてゐた。背後からは、彼女が抱へてゐる荷物が擦れ合ふ、微かな衣擦れの音だけが聞えてくる。


 だが、その道すがら、僕は言葉に出来ぬ、しかし確かな「違和感」を覚へずにはゐられなかつた。


 女の両手は、あの不釣合なほど重厚な荷物で完全に塞がつてゐるはずであつた。それなのに、彼女が差し出す黒い傘は、微塵も揺れることなく、あたかも独立した意志を持つた生物の如く、僕の背中を追つてくる。そして何より、足元を流れる雨水の飛沫しぶきが、僕の耳には一人分しか聞えなかつたのである。僕が水溜りを踏めば、ピチャリといふ音が一つだけ鳴る。僕が足を運べば、アスファルトを叩く音が一つだけ響く。


 僕は自分の理知を疑つた。京都からの長旅と、深夜の雨。これら重なり合つた疲労が、僕の聴覚を、或いは空間認識を狂はせてゐるに違ひない。僕はそう自分に言い聞かせ、懐の電話機の画面に映し出された、赤い針の座標を凝視した。


 「あ、ここを左です。もう、この角を曲がればすぐそこですよ」


 僕は地図上の指示に従ひ、住宅街の殊更ことさらに暗い、湿つた土の匂いの漂ふ角を曲がつた。


 「ほら、見てごらんなさい。到着しましたよ。ここが、お探しになつてゐた……」


 「ああ、有難うございます。……本当に、有難う」


 背後で女がささやいた。その感謝の声は、あたかも鋭利に研ぎ澄まされた氷の破片が、僕の首筋を優しくなぞつたやうに、異様な実感を伴つて僕の脳髄を震はせた。それは単なる謝意といふよりは、長く待ち侘びた供物を手にした者の、冷徹な満足感に近い響きを湛へてゐたのである。


 僕は満足げに地図を指差し、正面の敷地を堂々と指し示しながら振り返つた。


 「さあ、ここが――」


 その瞬間、僕の言葉は、喉の奥で氷つた。


 そこには、彼女が探し、僕の理知が導き出したはずの「マンション」など、影も形も存在しなかつたのである。


 眼前にあつたのは、漆黒の闇に沈む、広大な空き地であつた。  そこには、秋の雨に打たれるままの、背丈ほどもあるすすき草叢くさむらが、亡者の腕の如く乱雑に生ひ茂つてゐるばかりであつた。鉄柵は錆び朽ち、かつてそこに何らかの営みがあつたことすら、もはや想像するに難い荒廃が支配してゐる。


 僕は驚愕し、説明を求めようとして、隣に、或いは斜め後ろにゐるはずの女を見た。


 が、そこには誰もゐなかつた。


 あの重い荷物を抱へ、黒い傘を差して僕の背中を執拗に追つてきた女の姿も、アスファルトを濡らす傘の影も、どこにも存在しなかつた。雨は相変わらず、僕の蝙蝠傘を単調に叩き続けてゐる。しかし、僕の周りには、僕以外の体温を持つた生命の気配など、露ほども残つてはゐなかつたのである。


 「まさか……」


 僕は、自分の電話機の画面を震える手で再び覗き込んだ。赤い針は、依然としてこの「草叢」の只中を指し示してゐる。


 僕は一瞬、自分が別の次元、或いは死者の見る夢の中に迷ひ込んだのではないかといふ、猛烈な目眩めまいに襲はれた。女が求めてゐた「連速」といふ名の場所。それは僕の持つ文明の利器が描き出した、虚無の座標に過ぎなかつたのか。


 背後の闇から、再び「カサリ」と、何かが擦れる音が聞えたやうな気がした。僕は悲鳴を上げさうになるのを必死に堪へ、雨に濡れた靴を鳴らして、自分の家へと一目散に駆け出した。


 振り返つてはならない。


 もし振り返れば、あの女が、あの荷物を抱へたまま、にっこりと微笑んで僕の影を踏んでゐるやうな気がしたからである。


 僕の心臓の鼓動だけが、静まり返つた夜の町に、異常な速さで鳴り響いてゐた。

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