第二章:右手の絞殺、あるいは三十年の繋縛(けいばく)
それから七日目の夜。初七日の忌が明ける頃、前田は激しい息苦しさに目を覚ました。
暗闇の中で喘ぎながら、彼は洗面所へと這い出し、鏡を覗き込んだ。そこには、何者かの指によって絞められたような、鮮血のごとき赤い跡が、彼の喉首に刻まれていたのである。
恐怖に震えながら再び褥に入ったが、眠りに落ちようとするたびに、再び不可視の力が喉を圧迫する。 ついに前田は、その正体を見た。
布団を跳ね除けた彼の目に映ったのは、闇の中で生き物のように鎌首をもたげ、己の喉へと這い寄る「自分の右手」であった。
五本の指が、まるで蜘蛛の脚のように蠢き、主人である彼の命を絶とうと、執拗に首を絞めにくるのである。
「以来さ、寝る時はいつも、こうして右手を鴨居から吊るしているんだ」
三十年の月日が流れ、既に壮年となった前田は、力なく笑って私に右手首を見せた。
そこには、長年にわたる摩擦によって変色し、角質化した、醜怪な索条痕が残っていた。吊るし続けていたせいで、右腕だけが不自然に長く伸び、垂れ下がっている。
「お祓いもした、あの祠へ行って何度も泥を舐めて謝った。だが、あの石を投げた罪だけは、どうしても許してくれないらしい。投げた石も見つからない。まあ、ただの石だからね……だが、あの石は『神の依代』だったのか、それとも『悪鬼を封じる重石』だったのか」
前田は、この怪異と奇妙な折り合いをつけて生きていた。
自らの右手を、自分とは別の「意志」を持つ獣として飼い慣らし、夜毎に繋ぎ止める。それは、かつて恋人の手を離してしまった、彼に課せられた一生の「罰」なのであろう。
「俺が死ぬ時は、きっとこの右手に殺されるんだ。その時が、ようやく彼女への詫びが済む時なのかも知れないよ」
前田はそう言って、大正の薄暗い街角へと消えていった。
彼が今も存命であれば、そろそろ還暦を迎えようとしているはずだ。
今夜も彼は、暗い寝室で一人、己の殺意を秘めた右手を天井へと吊るし、微かな紐の軋む音を聞きながら、浅い眠りについているのであろうか。




