『微笑(びせう)』-3
第三章 断ち切られた糸
ナースコールは、それからも執拗に、あたかも飢えた獣が咽び泣くが如き執念を以て、夜な夜な鳴り続けた。
三井がその不可視の糸に手繰り寄せられる度に、死者はあの至上の微笑を浮かべ、彼女を待つてゐた。それは生前よりも鮮やかで、生前よりも慈愛に満ちてゐたが、その実、彼女の魂を「生」の岸辺から引き剥がし、「死」の深淵へと、優しく、しかし確実に誘つてゐるかのやうであつた。
果たして、清水といふ老人の側にも、三井に対する感謝といふ名の「執着」が、どす黒い澱みとなつて、この世に繋ぎ止められてゐたのであらうか。人間は、美しき徳目とされる感謝においてすら、他者を道連れにせんとする業から逃れられぬものか。
或る夜のことである。
時計の針が丑三つ時を指し、施設全体が墓場の如き沈黙に浸されてゐた。不意に、卓上の表示盤が赤く点滅し、あの空室からの呼び出し音が静寂を切り裂いた。
三井は、夢遊病者のやうな足取りで、吸ひ寄せられるやうに椅子を立ち上がろうとした。その瞬間――。
隣にゐた同僚の女が、三井の手首を鋼の如き力で掴み、強引に椅子へと引き戻したのである。
「えっ、何……? 清水さんが、呼んでゐるのに……」
三井が驚愕して同僚の顔を仰ぎ見ると、彼女の貌は、月光に照らされた紙のやうに真っ白に変色してゐた。その眼には、憐憫を通り越した、剥き出しの恐怖が宿つてゐた。
「いい加減にしなさい。あんた、一体、誰と話を極めてゐるつもりなの。……鏡を見てごらんなさい。あんた、もう半分は死人の顔をしてるわよ」
同僚の放つた冷徹な一言が、氷の楔となつて、凍りついてゐた三井の理知を撃ち抜いた。
その瞬間、この一週間の忌まわしき記憶が、地獄変の屏風の如く、凄惨な色彩を伴つて彼女の脳裏に蘇つた。自分は、既に土に還るべき死者と語らつてゐたのだ。血の通はぬ肉体が発するはずのない「微笑」を、あろうことか自らの存在を肯定する「やりがい」として、毒を飲むが如き悦びに浸つて享受してゐたのだ。彼女の慈悲は、今や醜悪な自己満足の餌食となり、死の国への片道切符と化してゐたのである。
「……もう、あの部屋に新しい入居者を容れる予定もないし、ナースコールの線を抜いておきましょう」
同僚の、あまりに現実的で、かつてないほど冷淡な解決策を聞いた途端、三井の眼からは、堰を切つたやうに涙が溢れ出した。それは愛する者を失つた悲しみなどではない。それは、己の存在を支えてゐた虚構の糸を無残に断ち切られた操り人形が覚える、絶対的な「虚無」の涙であつた。
ナースコールのプラグを壁から引き抜いたその日から、清水の姿は、あたかも最初から存在しなかつたかのやうに、ぷつりと途絶えた。
あの聖者の如き微笑も、魂を震はせた感謝の言葉も、夜を切り裂くベルの音も、すべては近代的なホスピスの、あの白き壁の向う側――生者が決して触れることの叶はぬ「忘却」の地平へと消え去つたのである。
あれから数年の月日が流れた。
三井は今も、同じホスピスの廊下を、白衣の裾をなびかせて歩んでゐる。彼女は今や、病人たちの口にする「感謝」の言葉を、以前のやうに手放しで信じ、喜ぶことはしなくなつてゐた。
感謝とは、生者が死者へ、あるいは死者が生者へ架ける「業の橋」である。一度その橋を渡れば、二度と現世の安寧には戻れぬことを、彼女は掌に残る冷たい手首の感触と共に悟つたのである。
深夜、人影の絶えた廊下を、唯ひとり巡回して歩く時、彼女は時折、暗い病室の角や、硝子窓の反射の中に、影のない「にっこり」とした微笑が、陽炎の如く揺らめいてゐるのを感じることがある。あるいは、誰もゐないはずの背後から、微かな「ありがとう」といふ吐息が、耳朶を掠めることもある。
しかし、彼女はもう、決して振り返ることはしない。
振り返つた時、そこにあるのは感謝といふ名の「生」ではなく、微笑といふ仮面を被つた「死」の誘ひであることを知つてゐるからだ。
読者諸君。
もし貴方が、日々の営みの中で、誰かから不自然なほど過剰な、或いは余りに完成された「感謝」を受けたなら、どうか気を付け給え。
その慈愛に満ちた、にっこりとした微笑の裏側には、貴方の孤独な魂を憐れみ、闇の底へと引き摺り込もうとする、冷え切つた「死の指先」が隠れてゐるのかも知れない。
ホスピスの白い壁は、今日もまた、数多の死者の囁きを無機質に吸ひ込みながら、静まり返つてゐる。
三井は、その沈黙の中を、ただ黙々と歩き続ける。
彼女の足音だけが、虚ろな鐘の音の如く、死の匂ひの消えぬ廊下に響き渡つてゐた。




