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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
『下宿屋の一室』

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『下宿屋の一室』-2

第二章:床下の饒舌じょうぜつ、あるいは逆さまの住人


 正午近く、大家が駆除の職人を連れてやってきた。南雲の部屋は、なぜか鍵が開いていた。


 私は不吉な予感に駆られ、廊下で待機していたが、室内へ踏み込んだ大家の「うわっ、大丈夫か!」という絶叫に、思わず扉を押し開けた。


 そこで私が見たものは――。


 湯殿ゆどのの冷たい床の上で、こと切れていた南雲の死体であった。


 警察の検分によれば、外傷はなく、心臓の鼓動が不自然に止まったのだという。私は朝に彼と会った時の様子をつぶさに語ったが、天井裏の調査については、何一つ教えられることはなかった。南雲の死は、謎のまま、仮初かりそめの終止符を打たれたのである。


 その日の夜。疲れ果てた私は、早々に布団へ潜り込んだ。


 すると――あの「ざわめき」が、また始まった。


 しかし、何かが違う。今までは床下からくぐもって聞こえていた声が、今は明らかに、私の「真横」から聞こえてくる。それも、壁を隔てた隣家ではなく、まさにこの畳の上、私の寝所のすぐ傍らで、大勢の人間が喋り狂っているかのような鮮明さである。


 私は、意を決して目を開け、灯火ともしびを掲げた。


 そして、とんでもないものを見た。


 そこには、一人の背広姿の男が立っていた。


 否、立っていたのではない。男は、水面から上半身を出すように、畳から直接「生えて」いたのである。


 男の眼球は上下左右に激しく回転し、その口は、あたかも早口言葉を連呼する活動写真の弁士のように、目にも留まらぬ速さで動き続けていた。


 そして、そのたった一つの口から――数百人の群衆が発するような、あの「雑踏」の声が、滝のように溢れ出していたのである。


 暗がりに目が慣れるにつれ、私はさらなる深淵を見た。


 その「背広の男」の傍ら、畳から顔だけを出し、目一杯見開いた瞳で天井を見つめている男がいた。


 南雲であった。


 死んだはずの南雲が、土の中から空気を求める魚のように、ゆっくりと、パクパクと口を動かしている。


 私は思考が停止し、着の身着のままで下宿を飛び出した。


 翌朝、大家に引っ越しを申し出たが、大家は不審な顔で私を追求した。


「南雲さんの死に関係があるのでは、と疑われていますよ。騒音のトラブルもあったようですし」


 私は必死に、昨夜の光景を語ったが、大家も、そして呼び出された警官も、冷笑を浮かべるばかりであった。


「貴君、寝不足で幻覚でも見たのではないか」


 私は発作的に怒鳴り散らし、自分の部屋の鍵を警官に投げつけた。「それなら、貴様らがあそこに一晩泊まってみろ!」と。


 結局、私は別の住まいへと逃れることが出来た。


 後日、警察から聞いた話では、南雲の遺した日記に、あの「背広の男」のことが記されていたという。


 南雲は、私が最初に苦情を言いに行くよりもずっと前から、あの男に出会っていた。そして、あの男が「悪意」の塊であることを知り、身の危険を感じていたのである。


 では、なぜ南雲は、私に対してあんなにも白々しい態度を貫いたのか。


 もしかすると、彼は天井裏に隠された「何か」を知っており、自分一人で地獄へ堕ちるのを恐れ、私を道連れにするために、あの場所へ引き留めようとしていたのではないか。


 あるいは、あの背広の男が奏でる「雑踏」は、次に飲み込まれる者の魂を呼ぶ、招集の合図だったのかも知れない。


 今、あなたの部屋の隅で、微かに聞こえるその物音――。


 それは果たして、風の悪戯でしょうか。


 それとも、誰かの口から溢れ出した、次の犠牲者を待つ「雑踏」でしょうか。

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