『下宿屋の一室』-1
第一章:雑踏の幻聴、あるいは二階の沈黙
私が上京し、下町の界隈にある古びた下宿屋の一室を借りたのは、ちょうどツツジの花が燃えるように咲き乱れる頃であった。
学生というものは、多かれ少なかれ、明るすぎる未来と裏腹の、底知れぬ孤独を抱えているものである。私もまた、新調したばかりの書机に向かい、西洋の哲学書を繙きながら、夜毎、都会の静寂に耳を澄ませていた。
異変が起こったのは、五月も半ばを過ぎた、湿り気のある夜のことである。
不意に、床下から――すなわち一階の部屋から、大勢の人間がひしめき合い、ざわめき騒ぐような声が聞こえてきた。
それは数人の客が酒を酌み交わしているといった風情ではない。まるで新橋の停車場か、あるいは浅草の活動写真館の前に集まった群衆が、一斉に意味のなき私語を漏らしているような、厚みのある「雑踏」の響きであった。
(階下の住人は、もしや蓄音機でも鳴らしているのか。あるいは、大掛かりな集会でも催しているのか)
私は眉を顰めたが、その夜はそれ以上気に留めなかった。しかし、その「ざわめき」は深夜三時を過ぎても、五月雨のように絶え間なく降り注いでくる。結局、私は一睡もできぬまま、白々と明ける東の空を眺める羽目になった。
その後も、夜十時から丑三つ時にかけて、この怪しい雑踏は頻繁に繰り返された。私の神経は日に日に摩耗し、ついに意を決して、階下の住人に抗議を申し込むべく、階段を下りたのである。
住人の名は、南雲と云った。私より二、三歳上で、どこか病的な青白さを湛えた苦学生風の男である。 私が苦情を切り出そうとすると、南雲は意外にも、蛇のような不機嫌さを剥き出しにしてこう言い放った。
「貴君こそ、毎夜毎夜、上階で何を騒いでいるのだ。大勢の人間を呼び込んで、床を抜かんばかりに歩き回る音が、この部屋まで響いてくるのだぞ」
私は戦慄した。私は独りである。客を招いたことなど一度もない。
互いの顔に浮かんだのは、共通の、そして正体不明の「恐怖」であった。 「では、あの雑踏は……上からではなく、下からでもなく、この中間に『何か』がいると云うのか」
沈黙が支配する中、南雲が震える指で天井を指した。 「天井裏を……見てみよう。そこには、我々の知らない空間があるのかも知れん」
私は、独断で解決することの危うさを説き、南雲を制止した。そして、白々しくも大家へ電話を入れ、「床下から異音がする」と告げたのである。大家は鼠でも入り込んだのだろうと合点し、数日中に職人を寄越すと約束した。
しかし、その約束の当日。早朝に南雲が私の部屋へ現れ、妙に急ぎ足でこう云った。
「急な用件が出来て、私は立ち会えん。大家が来たら、合鍵で勝手に入ってくれと伝えてくれ」
それが、私が生きた南雲と交わした、最後の言葉となったのである。




