第二章:泥の足跡、あるいは身代わりの十日間
翌晩のこと。宇佐美が仕事を終えて家へ戻りますと、女房が玄関で鬼のような形相をして待ち構えておりました。
「お前さん、昨日の物狂い、一体どこの女を馬に乗せていたんだい?」
宇佐美は面食らいました。独りで廃院へ行った身に、心当たりなどあろうはずがございません。
「何を言う。俺は独りだった」
「嘘をお言い。馬の鞍の横に、あんなに生々しい泥の足跡がついていたじゃないか。まるで見えない誰かが、お前さんの背中にしがみついて、そのまま家に上がり込んできたみたいにさ」
女房に促され、提灯の明かりで馬の鞍を確認した宇佐美は、言葉を失いました。
そこには、濡れた土を塗りつけたような「裸足の形」が、べったりと、左右揃うて残っていたのでございます。
宇佐美は、あの廃院の三階で聞いた「錠の音」を思い出し、喉の奥が乾くのを感じました。
それから十日ばかりが過ぎた、ある丑三つ時のことでございます。
宇佐美はふと目を覚ましました。
隣の居間から、――ミシリ。ミシリ。――と、男が歩き回るような、重々しい足音が聞こえてくるのでございます。 (女房が起きたのか?) そう思い、布団を返して隣を見れば、女房は泥のように眠っております。
では、この足音の主は誰か。
起き上がろうといたしましたが、体が石のように重く、指一本動かすことができません。これがいわゆる「金縛り」というものでございましょうか。
暗闇の中、背後の居間から聞こえる足音は、次第に宇佐美の寝所に近づいて参ります。
――グググッ。
宇佐美が必死の思いで念仏を唱え、体全身に力を込めますと、ふいと呪縛が解けました。
汗まみれで起き上がった宇佐美に、目を覚ました女房が震える声で話し始めました。 「お前さん……この十日間、一体どうしちまったんだい?
家にいても一言も喋らず、夜中に暗い居間でぼんやりと座っていたり、何度も何度も、体についた泥を落とすように行水ばかりして。まるでお前さんじゃない、別の誰かがこの家に居るようだったよ」
宇佐美の顔から、さあっと血の気が引いてゆくのが分かりました。
「……女房、落ち着いて聞け。俺はこの十日間、上方へ出稼ぎに行っていて、家には一歩も寄り付いていなかったんだぞ」
その言葉が終わるか終わらぬうちに、女房の顔が、恐怖で土色に変貌いたしました。 では、この十日間、同じ布団で寝、同じ膳を囲んでいた「あの男」は、一体誰だったのか。 居間の足音は、いつの間にか、ぴたりと止んでおりました。
翌朝、二人は逃げるように近在の名刹へと駆け込みました。 老僧は宇佐美夫婦を一瞥するなり、慈悲深い、しかしどこか冷ややかな笑みを浮かべてこう申しました。
「ああ、お気の毒に。今も奥様のお背中には、朱色の着物を召した男が、赤子のようにしがみついておられますよ」
老僧の語るところによれば、その男は廃院に閉じ込められ、狂い死にした囚人の霊だということでございます。
「その者は、お前様方が今日、馬に乗ってここへ来るのを待ち構えていたのですよ。お前様方が馬に跨がった瞬間、馬ごと谷底へ突き落とし、自分たちの住む『あちら側』へ連れ去ろうとしていたのです」
宇佐美は、あの日、女房が馬に乗るのを嫌がり、代わりに籠で寺へ向かった幸運に、ただただ平伏するばかりでございました。
不思議なことに、宇佐美は除霊も受けぬまま、その足で自宅へ帰ったと申します。
「理由さえ分かれば、あとは己の業として付き合うまでよ」
宇佐美はそう笑って髪を剃り続けましたが、その首筋には、今も消えぬ「泥の指形」が、痣のように黒々と残っておりました。
今、あなたの背後に漂う、その僅かな「湿り気」――。
それは果たして、ただの冬の夜風でございましょうか。




