第一章:廃院の牢獄、あるいは朱色の囚人
あれは確か、日本橋の界隈で腕のいい髪結いをしております、宇佐美と申す男から聞いた話でございます。
この男、若い頃は随分と血気が盛んで、およそ幽霊や変化の類を鼻先で笑い飛ばすような、剛胆な気性の持ち主でありました。暇さえあれば馬を駆り、あるいは山道を独り往くのを道楽としておりましたが、その中でも一際、人の寄り付かぬ「廃墟」――すなわち、主を失い腐朽するに任せた屋敷や寺を覗き見ることに、得体の知れぬ愉しみを見出していたようでございます。
二十年ほども昔の、ある物忌に近い曇天の日のことでございました。
宇佐美はいつものように馬を走らせ、知らぬ山道へと迷い込みました。当時は今のように道標が整うておらず、一度道を違えれば、そこはもう狐狸の棲み処も同然でございます。日暮れが間近に迫り、薄気味の悪い霧が立ち込める中、右手の木々の切れ間に、異様なほどに巨大な三階建ての建物が、あたかも地獄の門のように口を開けて立っておりました。
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それは、かつて疫病の患者などを隔離したという、古びた療治院(廃病院)の残骸でございました。
宇佐美は恐怖よりも好奇心が勝り、馬を繋ぐと、提灯一つを手にその深淵へと踏み込んだのでございます。
一階には、薬草の饐えた臭いが漂い、粉々に砕けた薬瓶や、血の滲んだ包帯が泥に塗れて散乱しておりました。二階へ上がれば、そこは病臥する者たちの長屋のようになっておりましたが、特筆すべき怪異はございません。
しかし、三階へ足を踏み入れた瞬間、宇佐美の背筋に氷の刃が走りました。
そこは、通常の療治院ではございませんでした。
立ち並ぶ部屋のすべてに、太い鉄格子が嵌め込まれ、あたかも重罪人を閉じ込める牢獄そのものの体裁を成していたのでございます。広々とした廊下の先まで見通せますが、そこには家具一つ、寝具一つ残されておりません。
ただ、一番奥の牢の前に、一点だけ。
「朱色」の、見たこともない異様な色をした囚人服のような着物が、あたかも中身の肉体がふいと消え失せたかのように、虚しく畳の上に落ちておりました。
気味が悪くなった宇佐美は、早々に立ち去ろうと出口の鉄格子をくぐりました。 その瞬間でございます。
――ガチャンッ。
背後で、確かに「錠が開く音」が響いたのでございます。
宇佐美は愕然といたしました。今しがた自分が、すべての牢の鍵が固く閉ざされているのを、この目で確認したばかりだったのでございますから。誰もいぬはずの、あの冷徹な牢獄のどこかで、誰かが内側から錠を外した。
この廃院には、今なお何者かが「住うて」おる。あるいは、人間ではない「何か」が。
宇佐美は脱兎のごとくそこを飛び出し、夜道を狂ったように馬を走らせ、ようやく江戸の自宅へと辿り着いたのでございました。




