『黒髪(くろかみ)-くろちゃん』-2
第二章:くろちゃん、あるいは愛着の狂気
その翌日のことである。
常盤が自室に戻ると、畳の上に、奇妙なものが落ちていた。
それは、一本の髪の毛ではない。
何十本、何百本という黒い髪が、まるで誰かの頭部から無理やり引きちぎられたような形で、無残な「毛束」となって転がっていたのである。
常盤は怪訝に思い、その毛束を拾い上げた。
家族に、これほどの長髪を持つ者はいない。ましてや、これほどまでに濡れたような不気味な光沢を放ち、指先にまとわりつくような脂気を帯びた髪など、心当たりがあるはずもなかった。
普通の娘であれば、ここで悲鳴を上げ、神仏の加護を求めるであろう。
しかし、常盤という娘は、どこか魂の芯が欠落していたのかも知れない。
彼女は、その得体の知れぬ毛束を恐れるどころか、奇妙な親近感すら覚え始めたのである。
彼女は白い皿を用意し、その上に毛束を丁寧に置いた。そして、あろうことか、それに名前を付けたのである。
「くろちゃん」
彼女は、その怪異を「愛でる」ことに決めた。
狂った母親をあしらうように、彼女はこの「毛束」をも、己の所有物として支配しようとしたのである。 彼女は毎日、机の上に置かれた毛束に話しかけ、その不気味な感触を慈しんだ。毛束は、日が経つにつれて、心なしか太さを増し、湿り気を帯びてゆくように見えた。
一ヶ月ほど、その異常な生活は続いた。
家族が崩壊してゆく中で、彼女にとって、この動かぬ髪の塊だけが、唯一、自分を裏切らぬ「家族」であったのかも知れない。
だが、狂気というものは、唐突にその色を変える。
ある日の午後。 常盤は、いつものように机の上の「くろちゃん」を眺めていた。
その時、ふいに、氷のような冷徹な理性が彼女を貫いた。
(……私は、一体何を、こんなゴミ同然のものを大切にしているのか)
愛情が冷めるのではない。それは、あたかも憑き物が落ちたというよりも、深淵を覗き込んでいた眼が、不意に自らの醜悪さに気づいたような、急激な「拒絶」であった。
彼女は、無表情に掃除機を取り出した。
昨日まで愛でていた「くろちゃん」を、彼女は一切の容赦なく、轟音と共に吸い込んだ。
紙の上に残された髪の残滓さえ、彼女は拭い去った。
これで終わりだ。この忌々しい髪の怪異も、私の下らない執着も。
彼女は、自尊心を取り戻したかのように、高く鼻を鳴らしたのである。
しかし。 掃除機のダストカップの中で、吸い込まれたはずの髪が、まるで断末魔の叫びを上げるように、激しく、のたうち回っていたことに、彼女は気づいていなかった。




