『微笑(びせう)』-2
第二章 忘却の誘い
翌朝、三井がその施設の重い玄関を潜つた時、事務所内には、夜明け前の空を思はせる銀鼠色の不穏な空気が、澱んだ霧の如く立ち込めてゐた。
「三井さん……清水さんが、昨夜……」
顔を上げた同僚の、血の気の失せた言葉を聞いた瞬間、彼女の心臓は一打、強い衝撃を覚え、そのまま永遠に停止するかと思はれるほど深い絶望へと沈み込んだ。
三井が昨夜、満足げに微笑んで部屋を出た後、老人の容態は、あたかも崖から落ちる石の如き急激さで暗転したのである。未明の見回りの際、看護婦が扉を開けた時には、清水は既に、雪白の布団の中で冷たくなつてゐたといふ。 看取ることが出来なかつたといふ「職業的な後悔」。そして何より、あの至上の報酬であつた「感謝の微笑」をもう二度と受け取ることが出来ぬといふ「個人的な絶望」。三井は震える手でタイムカードを切るなり、今は主を失つた無人の病室へと駆け込み、虚無の空間に跪いて、腰から崩れ落ちた。溢れ出る涙は、清らかな哀悼などではない。それは、失つた「己の存在価値」を繋ぎ止めようとする、止まることを知らぬ、どす黒い「執着の証」であつた。
それからの数日間、三井の周囲では、理知的な法則を嘲笑ふやうな奇妙な現象が、忌まわしき日常として常態化していつた。
深夜、消灯時間を過ぎ、静まり返つたナースステイションで、彼女が同僚と肩を並べて記録業務に没頭してゐる時であつた。不意に、卓上の表示盤に一筋の灯が点り、既に主を失ひ、新たな入居者も決まつてゐないはずの、あの「清水の病室」からナースコールが鳴り響くのである。
その鋭い音色を聞くや否や、三井は、あたかも見えぬ糸に操られる傀儡の如く、椅子を蹴つて立ち上がつた。 不思議なことに、その部屋へ向かう廊下を歩む間、彼女の意識からは、清水が「既にこの世を去つた」といふ厳然たる事実が、あたかも砂に染み込む水の如く、完全に消え去つてしまふのであつた。彼女の脳細胞は、死といふ恐怖を回避するために、狡猾な「忘却」といふ名の防壁を築き上げてゐたのである。
彼女が静かに扉を引くと、そこには生前と寸分違はぬ、清廉な清水が横たはつてゐる。
枕元の小さな灯りの中に、青白く浮かび上がる老人の横顔。彼は、三井の姿を認めるなり、あの夜と同じ、非の打ち所のない「にっこり」とした微笑を湛へて彼女を迎えるのだ。
「あ、清水さん、どうなさいました? お加減でも悪いのですか?」
彼女が、慈母の如き優しい声を掛け、一歩、その聖域へと足を踏み入れた途端――。
光は瞬時にして掻き消え、老人の姿は、冬の朝に消える霧の如く霧散してしまふ。後に残されるのは、月光が冷ややかに差し込む、凍てついた真っ暗な空室のみである。
「ちょっと、三井さん。こんなところで、一人で何をしてるの?」
後ろから、見回りをしてゐた同僚に声を掛けられ、三井は、深い夢から強引に引き摺り戻された者の如く、ハッと我に返る。
「あら……私、どうしてここに……」
彼女の理知は、今しがた眼前に現れた怪異を、病的な幻覚として拒絶しようと試みる。しかし、彼女の深層心理は、あの甘美な「微笑」といふ報酬を再び求めるが故に、毎夜、死者との密会を、無意識の裡に繰り返してゐたのである。
それは、聖なる奉仕の裏側に隠された、醜悪なまでの自尊心を満足させるための「幽霊との対話」に他ならなかつた。彼女は、死者に呼ばれてゐたのではない。彼女自身が、死者をこの世に呼び戻し、その「感謝」を貪り喰らつてゐたのである。
闇の中で立ち尽くす三井の足元を、どす黒い虚無が這ひ上がり、彼女の理性をじわじわと蝕んでゆく。
彼女は、忘却といふ名の、最も残酷な誘惑に身を委ね、一歩ずつ、生者の国から死者の国へと、その足を踏み外しつつあつたのである。廊下に響く同僚の足音さえも、今の彼女には、遠き異国の鳴る太鼓の如く、虚しく、縁遠い響きにしか感じられなかつたのだ。




