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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
『コンビニ』

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17/25

逆頭(さかあたま) ―― あるいは後部座席の空白

 午前三時の都会というものは、巨大な廃屋に似ている。


 街灯の放つ青白い光は、アスファルトの上に冷徹な影を落とし、眠りについた人々の家々からは、生気というものが一滴も感じられない。私はその夜、場末のコンビニエンス・ストアのレジに立ち、死の如き静寂の中で、棚に並んだ雑誌の表紙を虚ろな眼で眺めていたのである。


 ふいに、その静寂を、断末魔の叫びのような摩擦音が切り裂いた。


 一台の軽乗用車が、猛烈な速度で駐車場へと突っ込んできた。車体は縁石を掠め、火花を散らしながら、店の正面に無様に止まった。中から飛び出してきたのは、洋服姿の大学生らしい若者である。名は直樹といったか。


 彼の顔は、まるで石灰を塗りつけたように蒼白であり、見開かれた瞳には、正体不明の恐怖が黒い深淵となって溜まっていた。


「助けてくれ! 窓に、窓に誰かいるんだ!」


 彼は狂ったように叫びながら店内に転がり込み、本来は自動で閉まるはずの扉を、爪が剥がれんばかりの力で無理やり引き閉めた。さらに、存在しない「鍵」をかけようと、震える手で硝子戸の枠を必死にまさぐっている。その姿は、猟犬に追いつめられた一匹の鼠のように、醜悪であり、かつ滑稽でもあった。


 私は、自尊心の強い人間が陥る特有の冷淡さをもって、彼を一瞥した。


「お客さん、外には誰もいませんよ」


 私は彼を宥めるべく、硝子越しに外の車を指し示した。街灯の光の下に晒された車内は、空虚そのものである。後部座席にも、窓にも、ただ深夜の湿った空気が漂っているばかりで、怪しい影一つ映ってはいない。


 しかし――私の背後に設置された監視カメラの受像機モニターが、その「論理」を根底から覆した。


 受像機の画面の中、直樹の乗ってきた車の後部座席の窓に、べったりと「何か」が張り付いている。


 それは、水死人のように青白い女の顔であった。


 女は、硝子に鼻を押し潰し、内側から外を……いや、店内の直樹をじっと見つめている。剥き出しになった白目は、憎悪とも歓喜ともつかぬ異様な光を湛え、長い黒髪は、背負ったごうのようにどろどろと座席に広がっていた。


 女は、ゆっくりと車を降りた。


 重力というものを無視した、粘り気のある足取りで、自動ドアの前まで歩いてくる。


 現実の私の眼の前には、依然として誰もいない。街灯の光が虚しく駐車場を照らすばかりである。


 ところが、その時である。


「開けて、開けてよぉ……!」


 硝子戸を拳で叩く、激しい音が店内に響き渡った。


 見れば、自動ドアの向こう側、何もないはずの空間に「真っ黒な人影」が立ち尽くし、狂ったように硝子を打ち据えている。その絶叫は、錆びた針で鼓膜を刺すような鋭さで店内に染み込んできた。


「もう大丈夫だ。鍵さえ開けなければ、奴は入ってこれない」


 直樹は床にへたり込み、安堵の溜息をついた。彼の顔には、死線を越えた者特有の、卑俗な安心が浮かんでいた。

 だが、私は気づいてしまった。受像機の中の「真実」に。


 画面の中で、青白い女は自動ドアの前に立ったまま、動こうとはしなかった。彼女は、入店しようなどとは最初から考えていないようであった。女の視線は、硝子戸の向こうで叫ぶ「黒い人影」を、嘲笑うかのように見つめている。

 その黒い人影は――女によって車から弾き飛ばされ、肉体を奪われた直樹自身の「魂」だったのである。


 では、今、私の目の前で安堵しているこの男は、一体何者なのか。


 私は、受像機を凝視した。


 画面の中の直樹。その背中に、青白い女が「逆さまに」張り付いている。


 女は直樹の首元にその細い腕を巻き付け、背後から彼の肉体を完全に支配していた。彼女は最初から、車から降りる際に直樹の背中に飛び移り、彼と共に悠々と店内に「入店」していたのだ。


 真相に気づいた私の指先から、体温が急速に奪われてゆく。

 目の前の直樹が、ゆっくりと顔を上げた。


「……ねえ、何を見ているんですか?」


 直樹の声は、先ほどまでの怯えた若者のものではなかった。それは、古い井戸の底から響いてくるような、湿り気を帯びた女の声であった。


 私が声も出せずに立ち尽くす中、彼の首が、不気味な骨の軋む音を立てて動き始めた。


 メキメキ、ミシリ。


 自尊心も理性も粉々に砕け散るような音と共に、直樹の首は、胴体を残したままゆっくりと、百八十度回転し始めた。


 完全に逆さまになった彼の顔。そこには、あの車内の窓に張り付いていた女の、凍りつくような薄笑いが浮かんでいた。


 外では、魂を失った「黒い影」が、今も虚しく硝子を叩き続けている。

「開けて、僕だ、開けてくれ……」


 しかし、その声が届くことは二度とない。深夜の店舗を満たすのは、ただ、肉体という殻を手に入れた亡霊の、冷酷な哄笑ばかりであった。

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