『澁谷怪談』-3
三、残影の毒 ―― 消えた男の行方
「危ない!」
誰かが絶叫した気がした。いや、それは私の脳髄が発した、最後の理性の悲鳴だったのかも知れない。
眼前に迫る電車の前照灯は、あたかも冥府の入り口に燃え盛る劫火のように、私の網膜を真っ白に焼き付けた。直後、鼓膜を震わせる金属の軋み――巨大な鉄の塊が、断末魔のような呻きを上げて私の鼻先をかすめ、猛然と通り過ぎてゆく。
間一髪であった。
冷や汗が、全身の毛穴から毒液のように噴き出す。心臓は肋骨を突き破らんばかりに脈打ち、その衝撃は喉元まで競り上がってきた。私は、まるで泥沼から這い上がる罪人のような無様な手つきで、必死にコンクリートの床を掴み、体勢を立て直したのである。
そして、まだ震えの止まらぬ膝を支えながら、隣にいたはずの「あの男」を、必死に探した。
だが、そこには――ただ、空虚な夜風が吹き抜けているばかりであった。
あんな至近距離、私の鼓膜に直接死臭を吹き込んだはずの男が、影も形もなく消え失せている。ホームには、停車した車両の扉が吐き出す群衆が、何事もなかったかのように溢れ出していた。彼らはやはり、無表情な仮面を貼り付けたまま、私の側を擦り抜けてゆく。
その雑踏の中に、右袖を空しくなびかせた男の姿は、どこにも見当たらない。
(……幻覚、であったのか?)
私は、崩れ落ちそうな自尊心を繋ぎ止めるため、そう自分に言い聞かせようとした。これは過労が見せた一時の悪夢だ、現代の合理的な社会に、右腕を探す亡霊など存在して良いはずがない――と。
しかし、私の右耳の奥には、今もあの男の生々しい吐息の感触が、冷たい澱のようにこびりついて離れない。それは物理的な感触を超え、私の存在の核をじわじわと侵食してゆくような、確かな「毒」であった。あれは絶対に、気の迷いなどという生易しいものではない。
周囲の乗客が、私に対して冷ややかな視線を送ってくるのが判った。
「あいつは、一人で何を騒いでいるのだ」
「気でも触れたのではないか」
彼らの瞳には、憐憫よりも先に、異物を排除しようとする冷徹なエゴイズムが宿っている。私は、その視線の刃に射すくめられ、目の前の電車に乗る勇気さえ、霧散してゆくのを感じた。私はただ、石像のようにその場に立ち尽くし、一本の電車を見送ることにしたのである。
その後、私は取り憑かれたようにホームを彷徨った。
ベンチの裏、鉄柱の陰、さらには非常階段の奥の闇まで。私は、あの男がどこかで薄ら笑いを浮かべて隠れているのではないかと、執拗に検分して回った。しかし、結果は空疎であった。男の形跡は、最初からこの世になかったかのように、完全に消滅していた。
以来、私は澁谷の駅を利用するたびに、無意識のうちに自分の右腕を、その皮膚を剥ぎ取らんばかりの力でさすってしまう。
あの男は、今もこの喧騒のどこかに潜み、誰かの耳元で「失ったもの」を探し続けているのではないか。そして、もし――もし、誰かが好奇心や偽善の心に駆られ、「はい、知っています」と答えてしまったら。その瞬間に、何が起こるのか。
おそらく、男は満足げな笑みを浮かべ、その者の「健やかな腕」を、一片の未練もなく捥ぎ取って去ってゆくに違いない。そして、残された者は、中身のない袖を虚空になびかせ、また次の犠牲者を求めてホームを彷徨うことになるのだ。
それ以来、あの男を見ることは二度とない。
だが、夜のホームで風が袖を揺らす音を聞くたびに、私の脊髄には、あの時の冷たい吐息が、氷の刃となって蘇る。
私たちは皆、平穏な日常という名の薄い氷の上を、片腕のない亡霊に見つめられながら、危うい足取りで歩いているに過ぎないのである。
ふと、自分の右手を見る。
そこには、あの夜についたはずの手形は、もう見えない。
しかし、指先の感覚は、今なお僅かに、私自身の血を拒絶するかのように冷え切ったままである。




