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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
『澁谷怪談』

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『澁谷怪談』-1

挿絵(By みてみん)

一、澁谷怪談 ―― あるいは「右腕」の行方


 銀鼠色の空の下、澁谷という街は巨大な蟻塚に似ている。


 そこには無数の人間が、あたかも意思を持たぬ機械の歯車のように、絶えず蠢き、擦れ合い、消えてゆく。私はその夜、仕事帰りの山手線ホームに立っていた。


 湿り気を帯びた夜風が、病人の吐息のように首筋を撫でる。私は石炭を運ぶ貨車のように疲れ切った体を支え、電車の到着を待っていたのである。周囲には、青白い光を放つ硝子板スマートフォンを凝視する群衆が、墓石のように黙りこくって並んでいた。


 ふいに、その静謐な倦怠を切り裂く「音」が聞こえた。


「……僕の、右手……知りませんかぁ……?」


 それは不自然なほどに甲高く、脳の裏側を錆びた釘で逆撫でするような、およそ人間離れした声であった。


 私は反射的に顔を上げた。声の主は、一見どこにでもいる洋服姿の男である。煤けた背広を纏い、一時はどこかの事務室で凡庸な執務に励んでいたであろう、極めて特徴のない男だ。


 しかし、その動きは異様を極めていた。


 男は何かに憑かれたような足取りで、ホームの白線の内側を、右へ、左へと、狂った振子のように彷徨っている。


「僕の右手……知りませんか! 僕の右手を知りませんか!」


 男の絶叫は、冷徹なコンクリートの壁に跳ね返り、空虚に霧散した。だが、怪しむべきは、その男を取り巻く「無関心」という名の怪物である。


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 家路を急ぐ群衆は、あたかもその男がこの世に存在せぬ影であるかのように、誰一人として視線を向けない。隣に立つ女は睫毛一つ動かさず、背後の学生は耳に挿した管から流れる音楽に身を委ねている。彼らの持つ氷のようなエゴイズムが、かえって男の狂気を、暗闇の中の燐光のように鮮烈に際立たせていた。


 私は、呪縛されたようにその男を凝視した。いや、凝視せずにはいられなかったのだ。好奇心という名の醜悪な本能が、私の理性を上回ったのである。


 その時、私は違和感の正体に、氷水を背中に流し込まれたような衝撃と共に気づいた。


 男の右の袖――。


 それは、あるべき肉体を失い、中身のない脱殻のような袋となって、夜風に吹かれてひらひらと虚しくなびいていた。


 単なる欠損ではない。その袖の付け根からは、どす黒い、凝固した血のような色の、得体の知れぬ「影」が滲み出しているように見えた。男は狂乱の体裁で、左手で空っぽの右袖を掴み、千切れんばかりに振り回している。


「無いんだ。無いんだよ。さっきまで、ここにあったはずなんだ……!」


 男の瞳は、焦点の合わぬまま深淵を覗き込んでいる。その瞳に映っているのは、我々が見ている現代の駅舎ではなく、もっとおどろおどろしい、地獄の変相図であったのかも知れない。


 気味が悪くなり、私は強いて視線を足元に落とした。自尊心の強い私は、自分がこの狂気の一部に取り込まれることを極度に恐れたのである。私は光る画面を眺め、意味のない文字列を追うふりをしながら、男が通り過ぎるのを待った。


 しばらくすると、あの神経を苛む絶叫が止んだ。


(……どこかへ、失せおったか)


 微かな安堵が胸をよぎる。折しも、機械的な構内放送が電車の接近を告げた。私は何気なく、鉄の軌道が描く闇の方へと向き直った。


 その瞬間である。


「……知りませんか?」


 真横。いや、鼓膜のすぐ隣。


 ねっとりとした、死臭を帯びた湿り気のある声が、直接私の脳髄に注ぎ込まれた。


 驚愕して顔を向ければ、そこにはあの男の相好があった。


 至近距離。


 鼻先が触れんばかりの距離で、男の土気色の顔が私を覗き込んでいた。その顔は、まるで腐りかけた果実のように力なく弛み、剥き出しになった眼球は、真っ赤な充血の糸を張り巡らせている。


「ヒッ……!」


 私の喉からは、情けない、短い悲鳴が漏れた。腰が抜けそうになり、私の体は大きくよろめいた。


 同時に、駅のホームに鋭い警報音が鳴り響いた。


 接近する列車の風圧が、私の頬を叩く。激しい金属のブレーキ音。


 私はよろめいた勢いのまま、安全な白線の外側――すなわち、「生」と「死」を分かつ細い境界線を超えて、暗い線路の上へと踏み出しそうになっていた。


 その時、私の右肩を、氷のように冷たい「何か」が強く掴んだ。


 いや、掴んだのではない。それは「食い込んだ」のである。


「……あった」


 男の声が、歓喜とも絶望ともつかぬ調子で震えた。


 私は必死に体を捻り、ホームの内側へと這い上がった。間一髪、鉄の巨塊が私の鼻先を轟音と共に通り過ぎてゆく。


 冷や汗が全身の毛穴から噴き出し、心臓は早鐘のように打つ。私は震える手で、掴まれた右肩を押さえた。


 だが、そこには誰もいなかった。


 あんな至近距離にいたはずの男は、影も形もなく、夜の闇に吸い込まれるように消え失せていたのである。


 ホームには、到着した車両から吐き出された群衆が溢れ返っていた。彼らは相変わらず、無機質な表情で、互いを避けるように歩き去ってゆく。私が死の淵に立たされたことなど、誰も、一瞥だにしない。


 私は幻覚であったと自分に言い聞かせようとした。


 しかし、私の右肩の背広には、五本の指の形をした「どす黒い手形」が、消えぬ刻印のように鮮やかに残っていたのである。


 そして何より恐ろしいのは、その瞬間から、私の右腕の感覚が、じわじわと、しかし確実に、氷のように冷たく麻痺し始めていることであった。


 あれから、私は澁谷の駅を利用することができない。


 もし、どこかの駅のホームで、片袖をなびかせた男に出会ったとしても、決して目を合わせてはならない。  男は今も探しているのだ。


 あの時、私の肩に残していった「彼の右腕」を。


 そして、代わりに取り違えて持っていってしまった、私の「生きた右腕」の持ち主を。


 ふと、自分の右手を見る。


 鏡に映る私の手は、日に日に血の気を失い、土気色に染まってゆく。


 ……そう。今の私には、この手が誰のものなのか、もう判らなくなってしまったのである。


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