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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
『微笑(びせう)』

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『微笑(びせう)』-1

 芥川龍之介として、死と生が交錯する「病院ホスピス」という名の煉獄を舞台に、人間の執着と慈悲の裏側に潜む怪異を、三章の物語へとペンを走らせよう。


挿絵(By みてみん)

第一章 硝子ガラスの壁の向う


 或る日の暮方、僕は近代的な、しかし死の匂いの絶えぬ「臨終のホスピス」の廊下を、唯ひとり歩んでゐた。


 四方の壁は、眼を刺すやうに白く、床は鏡の如く磨き上げられてゐる。そこには西欧の理知的論理が築き上げた、無機的な清潔さが支配してゐた。しかし、その徹底した清潔さこそが、却つて肉体の腐敗を待つ人間の「剥き出しの業」を、あたかも顕微鏡の下に曝け出された細菌の如く、鮮明に浮き彫りにしてゐるやうに思はれてならなかつたのである。


 その施設に、三井といふ名の、献身的な看護婦がゐた。


 彼女は、日々、蝋燭の火が消え入るやうに肉体が朽ち果ててゆく病人たちの世話に、明け暮れてゐた。全身を襲ふ疲労は、鉛の如く重く彼女の肩にのしかかる。しかし、その重労働に疲れ果てた彼女の魂を、辛うじてこの世に繋ぎ止めてゐたのは、病人やその家族から投げかけられる「感謝」といふ名の甘美な報酬であつた。


 世俗の眼から見れば、それは一見、自己を犠牲にした崇高な慈悲のやうに見えるに相違ない。が、その実、それは自らの存在意義を他者の承認に委ねる、一種の「冷酷なエゴイズム」であつたのかも知れない。彼女は他者の謝意を啜ることで、己の空虚な自尊心を潤してゐたのである。


 この施設の静謐な一室に、清水といふ老人が入院してゐた。


 彼はパーキンソン病といふ、神経をじはじはと蝕み、自由を奪ひ去る病に侵されてゐた。しかし、老人は如何なる苦痛の中にありながらも、驚くほど端正な、気品に満ちた振る舞いを崩さなかつた。その言葉遣いは、古き良き時代の教育を受けた者特有の硬質さと優雅さを湛へ、三井が薬を運び、あるいは汚れた衣類を替へる度に、必ず「ありがとう」と、銀鼠色の空に差す一筋の光の如き微笑を見せたのである。

 三井は、かつて同じ病で亡くした実母の面影を、いつしかこの老人に重ねてゐた。


 彼女にとって、清水は単なる「患者」の一人ではなくなつてゐた。彼は、彼女の心の奥底にある、誰にも侵されぬ「聖域」の住人であつた。彼女は清水に対して、献身といふ名の執着を注ぎ込み、彼が口にする「感謝」の一語を、神の宣告の如く待ち侘びるやうになつてゐたのである。それは、今昔物語に描かれる、特定の何者かに魅入られた修行者の如き、危うい均衡の上に成り立つてゐた。


 或る夜のことである。


 交代の時間が訪れ、三井はいつものやうに清水の病室を訪れた。


 部屋には、死を待つ者の部屋特有の、沈殿した空気と微かな消毒液の匂いが漂つてゐた。窓の外は、既にどす黒い夜の帳が降り、月光が冷ややかに硝子窓を打つてゐる。三井は老人の枕元に寄り、努めて穏やかな声で語りかけた。


 「清水さん。また明日、私が参りますからね。今夜はどうか、お大事に」


 彼女は、自分の言葉が老人の胸中に「安らぎ」といふ名の波紋を広げることを確信してゐた。それこそが彼女の、看護婦としての「誇り」であり、同時に「傲慢」でもあつた。


 彼女が扉を閉めようとして、不意に振り返つた瞬間であつた。


 薄暗い部屋の奥、白い寝床の上に横たはる清水が、こちらを向いて「にっこり」と微笑んでゐた。


 その微笑は、あまりに慈愛に満ち、あまりに非の打ち所がなかつた。それは、現世の苦悩をすべて超克した聖者のやうでもあり、あるいは、深淵の底から獲物を誘ふ魔物のやうでもあつた。三井の胸中に、一瞬、えも言はれぬ不気味な戦慄が走つた。が、彼女の肥大した自尊心は、即座にそれを「最高級の感謝の表現」として変換してしまつたのである。


 「おやすみなさい」


 三井は満足げな溜息を漏らし、部屋の電気を消した。


 暗転した部屋の扉を閉める時、彼女の脳裏には、明日もまた、この美しい微笑に迎えられ、自分の存在が肯定されることへの、無意識の期待が芽生えてゐた。


 しかし、運命の歯車は、この時既に、音もなくその回転を狂はせてゐたのである。


 彼女が扉の向う側に残してきたのは、単なる病める老人ではなかつた。それは、彼女の執着が産み落とした、もう一つの「死の影」に他ならなかつたのだ。


 廊下を歩む三井の足音は、静まり返つたホスピスに、あたかも葬列の太鼓の如く、虚しく響き渡つてゐた。彼女はまだ知らなかつた。自分が今、この硝子の壁の向う側に、何を置き去りにしてきたのかを。そして、次にその扉を開ける時、彼女の理知が如何なる「虚無」に直面することになるのかを。


 夜の空気は冷え冷えとして、彼女の制服の襟元を通り抜けていつた。


 銀鼠色の廊下の先には、唯、底知れぬ沈黙が、口を開けて待つてゐるばかりであつた。


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