領地経営への介入と「シンプルな帳簿術」による合理性の勝利
ローナは、肉体的、社会的な妨害が全て失敗に終わると、次にマクナル様の最も大切なもの、すなわち「辺境伯領の経営権」に手を出してきた。彼女は、王都の公爵家が持つ経済的な権威を利用し、私の内政における地位を奪おうと企んだ。
あの女は男爵領に滞在しながらも、王都のルートを使って辺境伯領の穀物在庫、軍事予算、徴税記録など、あらゆる経営状況に関する機密情報を集め、マクナル様に「助言」という名の介入を始めた。
「マクナル様。辺境伯領の穀物の在庫管理や、徴税の帳簿は、あまりにも杜撰ではございませんか」
ある日の会談で、ローナはそう切り出した。彼女は、王都の公爵家が長年使用している、非常に複雑で、何重もの監査項目を持つ洗練された会計帳簿のコピーを、マクナル様に見せた。その帳簿は、辺境の役人にとっては、それだけで混乱を招くほど複雑なものだった。
「王都では、複雑な帳簿こそが、不正を防ぎ、正確な運営の証とされています。辺境伯領の現在のシンプルな記録では、将来、大規模な不正が発生するリスクが高すぎます。この公爵家の会計システムを導入すべきですわ。わたくしが、その導入と指導を担いましょう」
王都の複雑なものを正しいものだと錯覚させる、典型的な貴族の傲慢さと、それによる権力掌握の試みだった。マクナル様は、王都の公爵家の権威と、帳簿の持つ形式的な説得力に、一瞬、真剣に考え込んだ。この方の領地経営は常に逼迫しており、王都の資本とノウハウの導入には魅力があった。
「ローナ嬢の言うことも一理ある。現在の帳簿はシンプルすぎるところがあるかもしれない」
私がここで何も言わなければ、ローナは王都の帳簿を導入させ、それを管理する「実権」を手に入れるだろう。そうなれば、辺境伯領の経済は王都の公爵家に握られ、マクナル様は操り人形になりかねない。
私はマクナル様とローナの会談に同席し、静かに口を開いた。私の手元には、あらかじめ用意しておいた、二枚の紙があった。
「ローナ様のご提案、王都の巨大組織においては完璧でございますわ。しかし、マクナル様。巨大組織の効率化と、小規模で迅速な辺境伯領の効率化は、全く異なるものです」
私は、マクナル様の目の前に、一枚目の紙をそっと差し出した。それは、前世で私が学んだ「ビジュアル・マネジメント」の手法に基づいた、非常にシンプルな在庫管理表だった。
「ローナ様の帳簿は、全てが文字と数字で書かれ、監査役以外には理解が困難です。しかし、領地の運営で最も大切なのは、『現場の人間が即時に理解できる即時性』と『問題点が隠せない可視性』だと、私は思います。この帳簿をご覧ください。赤は『危険な在庫不足』、青は『通常在庫』、緑は『過剰在庫による腐敗リスク』。全ての在庫を、この一枚の紙で、色と形で、一目で把握できるのです」
私はさらに、二枚目の紙を差し出した。それは、マクナル様が領地の収入と支出を一目で確認できる、前世の「キャッシュフロー計算書」を応用したものだった。
「複雑な帳簿は、現場の労働者にとっては、ただの重い負担となり、記入ミスや隠蔽を誘発します。しかし、この『シンプルな可視化帳簿』は、計算が苦手な領民でも間違いなく記入でき、しかも問題点を一瞬でマクナル様と私が共有できる。監査は、このシンプルな帳簿が示す問題点に対してのみ行えばよい。この方が、効率的かつ不正のリスクを減らせます」
私の夫は、私のシンプルな帳簿を見て、その合理性に目を見開いた。
「これは、確かに、一目でわかる。複雑な計算や、手間のかかる記入が必要ない。辺境の現場で働く者たちにとって、これほどありがたいものはないだろう。複雑な王都の帳簿よりも、このシンプルさの方が、不正の余地をなくす」
その方は、ローナが持ってきた分厚い帳簿と、私が持ってきた二枚の紙を、交互に見比べ、決断を下した。
ローナは、私の「シンプルな帳簿術」の前に、反論の言葉を見失っていた。
「そ、そんな単純なもので、公爵領の経営が成り立つとでも。辺境伯の地位を軽んじてはいけませんわ」
「ローナ様。公爵領と辺境伯領では、経営の要点が異なります」私は冷静に言った。「公爵領は既に完成された巨大な組織です。複雑な帳簿は、既得権益者の不正を防ぐために必要でしょう。しかし、辺境伯領は、資源と時間が限られています。迅速な判断と、現場の労働者による正確な実行力が命です。複雑な帳簿は、むしろ現場の混乱を招きます。マクナル様が目指すのは、王都のコピーではなく、この辺境伯領に最適な、世界一効率の良い領地運営です」
辺境伯様は立ち上がり、私の肩を抱いた。
「アナスタシア。そなたの言う通りだ。辺境の地で、王都の複雑な慣習を持ち込むのは、むしろ害になる。このシンプルな帳簿と、可視化された管理こそ、この領地の財産を守る最善の方法であり、私の経営哲学に合致している」
そして、彼はローナに優しく、しかし有無を言わさない口調で言った。
「ローナ嬢。君の助言は感謝する。しかし、この領地の経営は、妻と私で充分だ。王都の最新の慣習は、王都で役立ててくれ。私の領地は、私の妻の合理的な知恵に基づいて運営される」
ローナは、領地の経済権を奪うという最後の理性的な試みも、私の現代の「マネジメント知識」によって失敗に終わり、悔しさに唇を噛み締めていた。彼女の悪意は、私の合理的な「シンプル・イズ・ベスト」の哲学によって、完全に打ち破られたのだ。
「君は本当に、どこでそんな知識を身につけたんだい。王都の教育では、あのような合理的な思考は教えない。私は君の知性を見くびっていたようだ」
「愛する夫と、その大切な領地を守るためなら、自然と知恵が湧いてくるものですわ。それに、私の知識は、全てマクナル様という最高の統治者に使われることで、初めて価値を持つのです」
「そうか。その知恵と愛を、私だけに注いでくれる君を、私は心から愛している。君は私の誇りだ」




