偽装された「事故」と現代の物理法則の応用
ローナは、社交的な妨害と階級を利用した攻撃が、私の合理的論理とマクナル様の深い愛情によって完全に無効化されると悟り、次に取る手段はより直接的で物理的なものへと移行した。彼女は、マクナル様と私を辺境伯邸から離れた場所で狙うことにしたのだ。
ある日、マクナル様は隣接する男爵領の館に、軍事境界線に関する重要な会談のために出向くことになった。ローナはその館に滞在していたため、マクナル様は形式的に彼女を伴侶として連れて行かねばならなかった。
「マクナル様、男爵領へは馬車が二台必要ですね。私とマクナル様が乗る馬車と、ローナ様の馬車を」
私がそう提案すると、ローナは即座に食いついた。彼女の瞳には、私と夫を二人きりにさせるまいという明確な敵意が宿っていた。
「あら、アナスタシア様。私とマクナル様は、軍事的な境界線の問題や、王都の最新の情勢について、色々と語り合いたいことがあるのです。公爵家の一員として、辺境伯のお力にならねばなりません。ご一緒に乗らせていただいてもよろしいかしら」
マクナル様は私を見た。私は静かにニコリと微笑んだ。夫がローナと二人きりで馬車に乗ることを、私が許容したというメッセージを彼に送ったのだ。
「すまない、ローナ嬢。今日はアナスタシアの希望で、私が馬車を御者席で御すことになっているんだ。妻との二人きりの時間なので、君は別の馬車に乗ってほしい。それに、軍事機密は、公の場で話すべきではないだろう」
マクナル様はそう言って、私を優しく抱き寄せた。彼は私の意図を理解し、ローナの介入を退けただけでなく、私との夫婦仲の親密さを再度誇示してくれた。
ローナの顔は青ざめたが、辺境伯の決定に逆らうことはできない。あの女は渋々、彼女の使用人たちが乗る別の馬車に乗り込んだ。
私たちの馬車が出発してしばらく、後方のローナが乗った馬車から、大きな物音と、彼女の甲高い悲鳴が聞こえた。
「痛い。うう、足首をひねってしまいましたわ」
馬車を停め、駆け寄ると、ローナは涙目で足首を押さえていた。
「馬車が急な段差で揺れて、前のめりになった拍子に、足首を強く打ってしまったようですわ。マクナル様、この辺境の道は、整備が不十分で危険すぎます。わたくし、このままでは遠くまで行けません」
彼女は、遠い男爵領への移動を拒否し、辺境伯邸に戻って療養するという口実で、マクナル様を独占し、私を排除しようと企んでいるのは明らかだった。これは、彼女の計画的な、偽装された「事故」だ。その様子は、あまりにも芝居がかっていて、前世の職場で見た仮病を使う同僚を思い出させた。
私は辺境伯様の許可を得て、ローナに近づき、彼女の足首の様子を注意深く観察した。確かに、彼女は痛みを訴えているが、靴下の上から触れる限り、捻挫特有の異常な腫れや、熱は感じられない。この時代の医術では、捻挫か打撲かの判断は難しく、貴族の訴えがあれば、治療を優先せざるを得ない。
その時、ローナが倒れた地面の様子に、私の目が釘付けになった。
私は立ち上がり、驚いた顔を作り、大声で言った。
「ローナ様！ 足首の捻挫よりも、こちらの方が大変です」
「へ？」ローナは、私の予想外の反応に、思わず目を見開いた。
私は、ローナが倒れた場所のすぐ近くの地面を指さした。そこには、直径一センチほどの、滑らかな丸い石のようなものが、三つほど転がっていた。それは、この辺境の道には通常見られない、均一に研磨された物体だった。
「ローナ様が足を踏み外した直後、この小さな丸いものが、ローナ様の馬車の車輪の下から飛び出しました。これは、誰かが故意に、馬車の車輪の下に、この『小さな球体』を置いて、事故を装ったのではないでしょうか」
私は前世で学んだ「物理学」の知識を応用した。摩擦の少ない球体を車輪の下に置けば、馬車は滑りやすく、特に急な停止や方向転換を強いられた際、乗っている人間がバランスを崩して転倒するのは必然だ。ローナが自ら仕掛けた「事故」の裏にある「仕掛け」を、私は公衆の面前で暴いたのだ。
マクナル様と周囲の兵士、そして使用人たちが、一斉に地面に転がる球体を見た。辺境伯様は、その物体が、単なる石ころではなく、何らかの意図を持って置かれたものであることを瞬時に理解した。彼の顔つきは、戦闘時のような険しいものへと変わった。
「執事！ ただちに、この球体を回収し、誰がこれを置いたのか、ローナ嬢の馬車を管理した者、そして王都から来た使用人全員に尋問するように。これは、単なる事故ではない。辺境伯領に危害を加えようとした、悪質な妨害工作の疑いがある」
マクナル様の声は冷徹で、周囲の空気が凍り付いた。ローナは、自分の足首の痛みを訴えることすら忘れ、顔面蒼白になっていた。彼女の偽装工作は、私の持つ現代の「物理法則」という目に見えない常識によって、暴かれたのだ。
私は、再度ローナの足首に触れ、彼女に耳打ちするような親密さで言った。
「捻挫の疑いを晴らすため、確認させてくださいね。失礼いたします」
私は、彼女が本当に捻挫しているなら動かせない関節を、ごく自然な動作で少しだけ動かした。
「い、痛い！ ああっ。アナスタシア様、やめて」
ローナは痛みを訴えたが、その訴えはどこか芝居がかっていて、肝心の関節はスムーズに動いた。捻挫のあの強烈な痛みと、動かせないほどの硬直はなかった。
「マクナル様。捻挫の可能性は低いようです。打撲か、せいぜい軽い挫傷でしょう。安静にしていればすぐに治ります。むしろ、この『球体』の調査を急ぐべきです。マクナル様と私、あるいは領地の誰かを狙った、周到な計画でしょうから」
私の夫は、私の冷静さと、敵の悪意を見抜く観察力に、深く頷いた。
「そうか。よかった。ローナ嬢。君の安全を最優先するため、君が持ち込んだ使用人たちに、この『球体』の出所を厳しく問いただすように命じる。君は、大事を取って、そのまま男爵領へ向かい、安静にしていなさい」
マクナル様は、ローナを辺境伯邸に連れ戻すという彼女の願いを完全に無視し、彼女を男爵領へと送り届けた。彼女の試みは、私を辺境伯邸から追い出すどころか、彼女自身を辺境伯領から遠ざけ、その上、彼女の使用人に嫌疑をかけるという最悪の結果に終わったのだ。
二人きりになった馬車の中で、辺境伯様は私を強く抱きしめてくれた。
「そなたのおかげで、またしても大事に至らずに済んだ。まさか、車輪の下に置かれた球体に気づき、それを『物理法則の応用』と見抜くとは。君は本当に、私の予想を遥かに超える賢さを持っている。私の命を狙った行為を、君の知恵で暴き、逆に敵を不利な立場に追い込んだ。そなたこそ、この辺境伯領の真の守り手だ」
「わたくしの夫に危害が加わる可能性があったので、気が気ではありませんでした。これで安心して、男爵領へ行けます。あの女の企みは、すべて私の手で打ち砕いてみせますわ」
「ああ、君の知恵と勇気に感謝するよ、アナスタシア。君のそばにいられることが、私にとって最大の幸福だ」
