地獄のブラック企業から最高のスパダリ夫の腕の中へ
目を覚ました瞬間、目の前に広がる光景に私は言葉を失った。天蓋付きのベッド、柔らかな絹のシーツ、そして窓から差し込む朝の光。外からは聞いたことのない鳥の、しかし優雅なさえずりが聞こえる。ここは、私が前世で住んでいた、東京の六畳一間のアパートではない。
「ここ、どこかしら」
自分の口から出たのは、日本語ではない、流れるような美しい響きの言語だった。私は橘アカリ。連日徹夜が続き、気づけば駅のホームで気を失っていた、疲れ果てたブラック企業勤めのOLだったはず。あの地獄のような日々から、私は完全に切り離されたのだと、直感的に悟った。
恐る恐る自分の手を見る。それは、マウスだこや、ペンだこで荒れていた私のものではない。細く、白く、爪の先まで丁寧に磨き上げられた、見事なまでに美しい女性の手だった。
その時、ベッド脇の重厚な椅子に座っていた人物が、静かに立ち上がった。その姿を見た瞬間、私の混乱した思考は一瞬で停止した。
「おや、起きたのかい、アナスタシア」
青い朝の光を浴びたその男性は、あまりに完璧だった。深く澄んだサファイアのような瞳、ギリシャ彫刻を思わせる整った顔立ち。彼はただの美形というだけでなく、鍛え抜かれた騎士特有の揺るぎない威厳を全身から放っていた。上質なウールのガウンを纏っているにもかかわらず、その下の肉体の力強さが容易に想像できた。
「マクナル様」
この人物の名前が、なぜか私の口を突いて出た。その名を聞いただけで、私の胸の奥が温かい愛情と、微かな安堵で満たされる。私は、この世界の公爵令嬢アナスタシアという女性に転生し、目の前のこの人物が私の夫であることを、彼女の記憶の断片と、自分の高鳴る鼓動から理解した。
リリウス辺境伯は優しく微笑み、私の額に手を当てた。その大きな手は、戦場で剣を振るう荒々しさと、私を扱う時の極度の優しさを併せ持っていた。
「昨日は少し熱があったんだ。寝不足が祟ったのだろう。もう大丈夫かい」
彼の声は低く、しかし驚くほど甘美で、私を包み込む。前世の上司が私に投げかけた、心無い叱責や、感情のない指示とは全く違う。これは、純粋な愛情と、心からの気遣いの声だった。転生して目覚めた場所が、こんなにも完璧で、私を心から愛してくれる男性の腕の中だったという事実は、あまりにも都合の良いフィクションのようだった。
「熱は下がったようだね。よかった。だが、今日は一日、何も考えずに安静にしていなさい」
「ありがとうございます」
思わず口にした敬語に、辺境伯は少しだけ笑った。
「君は私の妻だよ、アナスタシア。礼儀は必要ない。君は私の妻であり、このリリウス辺境伯領の女主人だ。領地のことは、私が全て片付けてくる。君はただ、回復することだけを考えなさい」
彼は私の手を握り、彼の美しい唇をそっと私の手の甲に触れさせた。その一連の動作の優雅さ、そして彼から伝わる熱が、私の頬を朱に染めた。私は、この完璧な夫に、完全に恋に落ちていた。
私がアナスタシアとしてこの領地で過ごす日々は、前世の地獄のような労働環境とはあまりに対照的だった。屋敷の管理は大変だったが、前世のブラック企業で鍛えられた驚異的なマルチタスク処理能力と、アナスタシアが持つ貴族としての教養が合わさることで、驚くほどスムーズに片付いていった。
そして何より、マクナル様が素晴らしすぎた。彼は早朝から辺境伯領の軍事と経済を統括する激務をこなしていたが、私が領地の問題について少しでも口を出すと、真剣に耳を傾けてくれた。
ある時、私は領民の間に蔓延する、原因不明の体調不良について相談した。前世の知識では、それは明らかな栄養失調と衛生問題だった。
「マクナル様。領民の体調不良は、貴族が食す高価な食材だけを『良し』とする、誤った栄養観に基づいています。肉や王都から運ばれる食材は高価で、領民は手が出ません。しかし、畑で採れる豆類や、発酵させた野菜にも、人間が必要な良質なタンパク質やビタミンが豊富に含まれているのです」
私は、この世界の常識では未発達な「栄養学」と「衛生学」をマクナル様に説明した。特に、煮沸消毒の重要性や、生水と調理器具の関連性を熱弁した。
「王都の学者であれば、一笑に付すだろうね」
マクナル様は私の話が終わるまで静かに耳を傾け、そう言った。
「しかし、君の論理には一貫性があり、非常に合理的だ。君の言う通り、領民の体調不良は、飢餓というよりも、食の偏りから来る『不均衡』なのだろう。これほどに安価で、合理的で、領民の生活を向上させる知識を、君はどこから得たのだ、アナスタシア」
私は、彼の深い青の瞳に正直に、しかし曖昧に答えた。
「昔、たまたま読んだ書物に、このような『合理的常識』が載っていたのです。わたくしの夫と、この領地を守るためなら、自然とそれが記憶から呼び起こされるのです」
マクナル様は、私を疑うことなく、すぐに領内の医師と行政官を集め、私の提案した「豆と煮沸消毒」のキャンペーンを大々的に展開させた。彼の即断即決の能力と、私の現代知識への絶対的な信頼が合わさることで、辺境伯領の生活環境は劇的な改善を見せ始めた。
夜、仕事から戻ったマクナル様は、私を抱きしめ、囁いた。
「そなたが淹れてくれるハーブティーは、王都のそれよりも心を落ち着かせてくれるよ。私の心を最も癒すのは、君の存在だ。君は、私の妻であり、私の命を支える賢者でもある。君は本当に、最高のパートナーだよ、アナスタシア」
私は、この愛情の深さと、彼が私の知性を高く評価してくれる事実に、前世の孤独が溶けていくのを感じた。ブラック企業で使い潰された私の存在価値は、この世界で、この夫によって、何百倍にも高められたのだ。私はこの愛を、何があっても守り抜くと、心の底から誓った。
しかし、その穏やかな日々は、一つの王都からの情報によって打ち破られることになる。
「王都から、客人が来る。ローナ・ド・フィオレンツァ公爵令嬢だ。病弱のため、この辺境の地で療養を兼ねて滞在したいそうだ」
ローナ。その名前が、私の背筋を一瞬で冷やした。アナスタシアの記憶によれば、あの女はマクナル様を巡る私の最大の敵だ。公爵令嬢の座を背景に、マクナル様との婚約を画策していたが、マクナル様が私との愛を選んだため、私を憎悪している。
彼女の滞在の目的が「療養」であるはずがない。ローナは、この辺境の地で、私とマクナル様の間に楔を打ち込み、辺境伯夫人の座を奪うつもりなのだ。
私が表情を曇らせたことに気づいた愛する夫は、私の手を優しく包み込んだ。
「わかっているよ、アナスタシア。彼女は、私が辺境伯になった今も、私を諦めていないようだ。だが、君だけが私の妻だ。私にとって、君以上に価値のある人間など、この世界にはいないのだから、何も心配しなくていい」
「君は、君らしくいてくれればいい。もしあの公爵令嬢が君を傷つけるような言動を取ったら、遠慮なく私に言いなさい。私は、君を守るためなら、公爵家を敵に回すことも厭わない」
彼の深い愛の言葉に、私は安堵した。私の夫は、ローナの権力や美貌に惑わされるような浅はかな男ではない。
私は夫の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとうございます、マクナル様。私も、この最高の人生を、誰にも壊させません。ローナ様がどんな陰謀を仕掛けてきても、私はマクナル様を信じ、この辺境伯夫人としての座を守り抜きます」
さあ、来なさい、ローナ。貴女の古風な嫉妬と悪意など、私の現代の常識と、夫との揺るぎない愛の前では、どれほど無力であるか、思い知らせてあげる。




