病みと闇(4)
翌日、上野は駅近くのファミリーレストランにいた。
店内は静かだった。窓際の席には柔らかい日差しが差し込み、淡い影をテーブルに落としている。かすかに流れるジャズのBGMと、時折響く食器の触れ合う音だけが、店内の静けさを際立たせていた。客はまばらで、遠くの席に数組がちらほら座っている程度だ。
そんな店で、依頼人である東原麗奈に報告をした。未来が自殺した顛末について、事細かに話したのだ。
正直、全てを話していいのだろうか……という迷いもあった。だが、どうしてもこのままにしてはおけなかった。せめて、依頼人である東原にだけは真相を伝えたかった。
「そうだったんですか……」
話を聞き終えた東原は、低い声で言った。
やがて、その目から涙が溢れる。
「噂には聞いてたんです……未来が、すっごい無茶して稼いでるって。でも、あたしには何もできなかった。当時は両親から縁を切られ、少年院みたいなところにぶち込まれ、どうにかシャバに出てきたら自殺したって聞いて……」
そこで、東原は顔をあげた。
「未来の両親の家を教えてください。そんな奴らが、のうのうとしてるなんて許せない」
体を震わせながら言った。その目には、はっきりとした殺意がある。そう思うのも、当然だろう。
しかし、上野はかぶりを振った。
「悪いが教えられない。君に、罪を犯させるわけにはいかないからな。それに、ふたりとも既に罰は受けている。詳しい内容は言えないがね。とにかく、今さら君が手を降すほどの価値はないよ」
「そうでしたか……本当に、ありがとうございます」
その言葉には、わずかな安堵と、まだ消えきれない怒りが混ざっていた。上野はその姿を見つめながら、心の中で微かにため息をついた。
帰り道、上野はやりきれない思いを抱えたまま歩いていた。
除霊師という職業は、否応なしに人間の闇に触れる。この世に無念の思いを残し、霊となってさまよう……そこには、普通に生きている人間には想像もつかない世界がある。
中には、完全に闇に染まってしまう者もいる。
ある程度の力を持つ除霊師ならば、低級の悪霊に言うことを聞かせられる。完全に支配できるわけではないが、それでも不幸にしたい人間に取り憑かせる程度のことなら、簡単にできる。
その力を利用し、金儲けに励む……のは、まだマシな方だ。中には「人間こそが、本当に邪悪なのだ。こんな邪悪な存在は、絶滅させるべきだ」などという狂念に憑かれてしまった者もいる。そういった除霊師は、悪霊を操り人間たちに害を及ぼすようになる。
今まで、そんな狂念に憑かれてしまった除霊師は何人もいる。ここまでいってしまうと、説得も聞かず、もはや手の打ちようがない。裏社会の人間の力を借り、人知れず始末するしかないのだ。
優れた力を持ちながらも、そうやって死んでいった者たちを、上野は何人も見てきた。
上野もまた、そうした者たちの「始末」に立ち会ったことがある。それも、一度や二度ではない。
上野は歩いた。
ひたすら歩き続け、ようやく目当ての店を見つける。
それは、どこにでもあるコンビニであった。
「いらっしゃいませ……あれ、上野さん?」
若い店員は、ブスッとした表情の上野にも笑顔を向ける。中肉中背で、いかにも人の良さそうな顔立ち……そう、上野の数少ない友人のひとり入来宗太郎である。
そんな青年を前に、上野の表情は少し和らいでいった。もっとも、口調はぶっきらぼうなものである。
「何なんだ、お前は。いつもヘラヘラして。相変わらずふざけた奴だな」
「いや、別にふざけてはいないんですが……」
困惑する入来に、上野は顔を近づけていった。
「どうせまた、あの配達娘のことなど考えていたのだろうが」
「べ、別にそんなこと考えてませんよ!」
慌てて否定する入来を見て、上野はフッと笑う。
「どうだろうな。全く、若い奴は彼女ができると、すぐに浮かれる。しょうがない奴だ」
帰り道、上野はコンビニのビニール袋を下げながら、のんびりと歩いていった。その表情は、先ほどとはうって変わっている。
確かに、世の中には闇がある。しかし、それだけではない。
そう、世の中は闇だけでできているわけではない。光もあるのだ。無論、闇を無視してはいけない。だが同時に、闇ばかりに目を向けていてもいけないのだ。その両方があって、世界は成り立っている。
そして、今の自分には光がある。人間の善意を信じることができる。入来宗太郎や、その彼女である山樫明世、空手の師匠である黒崎健剛、まだ他にも大勢いる。彼らがいる限り、上野は闇に堕ちることはない。
上野は歩きながら、自分の胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。それは、安堵や友情、そして人間の善意への信頼だ。闇を知る者だからこそ、光の価値も知っている。彼はゆっくりと、しかし確かな足取りで歩いていった。
街の灯りが夕暮れの空に溶け込み、通りを歩く人々の影が伸びる。上野は立ち止まり、深呼吸をひとつする。今日という一日が、どれほど重いものだったとしても、明日が必ず来ることを信じていた。歩みを止めない限り、光は見失わない。彼はそう確信していた。




