病みと闇(2)
三日後、上野は違う場所にいた。
町外れのアパートの階段を上がっていき、端にある部屋のブザーを鳴らす。
しかし、誰も出ない。もう一度鳴らしてみたが、やはり出てこない。しかし中からは、人の気配は感じられる。居留守を使うつもりなのか。
苛立った上野は、力任せにドアを叩いた。
「早く開けろ。俺は、娘さんの知り合いだ。開けないと、娘さんから聞いた話を市役所で言ってやるぞ」
その途端、ドアが開いた。中から、異様な姿の中年男が顔を覗かせる。
「あんた、誰だよ?」
恐る恐る聞いてきた。と、上野は強引にドアを開け、体を滑り込ませていく。
「佐倉雅直さん、はじめまして。上野信次だ」
「な、何なんだあんたは!? 警察呼ぶぞ!」
叫びながら、雅直は後ずさる。
見れば見るほど、無様な姿だった。髪は長くボサボサで、無精髭も伸びている。理容関係の店には、ここ数年ほど縁がないのだろう。肌は青白く、腕は細いが腹だけはポッコリと出ていた。まさに、不健康のモデルのような人物である。
そんな雅直に、上野は怯むことなく言い放つ。
「呼びたきゃ呼べ。あんたが何をしていたか、洗いざらい話してやる。ネットにも晒してやるよ」
「えっ……」
「あんたは二十年前、みどりさんと結婚した。その三年後に、未来さんが生まれた。当時、あなたは真面目に暮らしていたようだね。酒もギャンブルもせず、風俗もいかない。浮気なんかは論外だ。仕事が終われば、まっすぐ家に帰る。実に立派だった。この頃は、な」
そう、今の姿からは想像もつかないが……十年前の佐倉雅直は、絵に描いたような真面目人間だったのである。物流関係の会社でサラリーマンをしており、無遅刻無欠勤で社内での評判も良かった。
酒もタバコもやらず、仕事が終わると、まっすぐ家に帰る。家事も手伝うし、週末は家族サービスもする。
そんな男だったのであるが、今は見る影もない。
「だが、そんなあんたに予想もしなかったことが起きる。妻のみどりさんが、夫と娘を捨てて、どこかの男と消えてしまった。以来、あんたはおかしくなってしまった。それまで無縁だった酒を大量に飲むようになり、さらにキャバクラにも通うようになった。結果、あちこちに借金を作った挙げ句に自己破産。しかも、酒の飲みすぎにより仕事もままならずクビになった。で、今はアルコール依存症の診断を受け、生活保護を受給するようになった。だが、今も昼間から安酒を煽る毎日だ」
途端に、雅直は顔をしかめた。
今、上野が言ったことも全て事実だ。突然、妻のみどりが消えてしまった。心配し、警察に捜索願まで出したのである。
後でわかったのだが、みどりは夫と娘を捨て、愛する男と共に街を出ていったのだという。
以来、雅直は完全に壊れてしまった──
「娘の未来さんは、こんな家にいるのが嫌になった。彼女は、密かにアルバイトをして金を貯め始めた。この家を出て、自立するためにな。あの年代なら、身ひとつで家出してもおかしくなかった。だが、未来さんは慎重だった。まずは金を貯めて、と思ったのだろうな。そのバイトの内容は……」
そこで、上野の話は止まった。その顔には、迷うような表情が浮かんでいる。彼にしては珍しいことだ。
少しの間を置き、再び語りだす。
「今さら隠しても仕方ないな。はっきり言うと、彼女は売春をしていた。本来なら、話すことさえ嫌なオッサンたちの相手をして金を稼いでいたんだ。あんただって、気づいていたんだろう」
「いや、知らない。俺は知らなかったんだ……」
「嘘をつくな。俺は、未来さんが売春をしていたことについて、どうこう言うつもりはない。問題なのは、その稼いだ金がどうなったか、だ」
「し、知らない。俺は何も知らない……」
「あんたは、本当に往生際が悪いな。俺が全て言わないといけないのか」
そこで、上野はハァと溜息を吐いた。
「未来さんは、その金を部屋の畳の下に隠していた。あまり褒められた隠し場所ではないが、当時の彼女には、それくらいしか思いつかなかったのだろう。金は百二十七万と少し貯まっていた。なかなかの金額だ。きっと、彼女は懸命に仕事をしたのだろう。食べたいものを食べず、飲みたいものも飲まず、着たい服も買わなかった。そうやって貯めていた金が、ある日突然に消えた」
そこで、上野は雅直を指差す。
「その金を奪ったのは、あんただ。あんたは、その金を勝手に拝借した。そして、キャバクラに行き一晩で使い果たした。意気揚々と帰ってきたあんたは、娘にそのことを責められ逆ギレし殴り倒した」
「ち、違う。俺じゃない」
かぶりを振って否定する雅直だったが、上野は無視して話を続ける。
「悲嘆にくれた未来さんは、もはや何の希望もなくなり自殺した。あんたにとって、その百二十七万は一晩で使い果たして終わりだろう。だが、未来さんにとっては希望への架け橋だったんだよ。この家から出て、新しい生活を始めるための、な。彼女がそれだけの額を貯めるため、どれだけのオッサンの相手をしたんだろうな」
上野は突然、足元の空き缶を蹴飛ばした。話しているうちに感情が高ぶり、どうにも我慢ができなくなったのだ。雅直は、ヒッと声をあげる。
だが、上野はどうにか気持ちを落ち着かせた。再び話を続ける。
「その希望への架け橋を、あんたは粉々に吹っ飛ばした。挙げ句、未来さんは自殺という道を選んでしまった」
「し、知らない。俺には関係ない。俺は何もしていない」
「たかが百二十七万と思うかも知れない。だがな、その金を稼ぐため、未来さんはどれだけつらい思いをしたんだろうな。また、その金は彼女にとって唯一の希望だった。それら全てを、あんたのくだらない欲望が打ち砕いたんだ」
そこで、上野は雅直を指差す。
「未来さんの自殺……その責任の一端は、間違いなくあんたにあるよ」
「お、俺をどうする気だ!?」
「俺は何もしないよ。そもそも、あんたと話すのが苦痛だ。あんたと同じ空気すら吸いたくない。だから、俺は帰るよ。ただ、あんたはこの先地獄を見る」
意味不明なことを言い放ち、上野は出ていってしまった。
雅直は、しばし呆然となっていた。だが、すぐに歪んだ笑みを浮かべる。
「へっ、何なんだよあいつは。デカい態度しやがって、ふざけんじゃねえよ。お前に何がわかるんだ」
ヘラヘラした態度で毒づく。この何もない男にとって、世の中の全てをバカにして笑うことで自尊心を保っていたのだ。
だが、その態度はすぐに変わる。
「えっ?」
振り向いた雅直は、思わず後ずさる。
床に放置されていたゴミ袋が、もぞもぞと動いていたのだ。まるで、中に何か生物がいるように──
「お、おい、嘘だろ……」
雅直は、見間違いかと思い目を凝らした。だが、ゴミ袋はピクリともしていない。
どうやら、気のせいだったらしい。
「な、なんだよ……」
ホッとなった雅直だったが、続いて足元を見た瞬間──
「う、うわあぁ!?」
悲鳴をあげていた。
それも仕方ないだろう。足元に、何かが動いているのだ。形すらはっきり見えないものが足首を掴み、太股へと手を伸ばしている。それも、一匹や二匹ではない。
得体の知れない何かが、足を伝って体を登って来ようとしている──
「よ、寄るな!」
叫びながら、雅直は必死で逃れようとする。だが、彼らは離れてくれない。それどころか、笑い声すら聞こえる。
(ケケケケケ)
(この社会のゴミめ)
(酒飲むしか能がないのか?)
(娘を自殺に追い込んだ最低の父親)
次から次へと声が聞こえてくる。雅直は叫び続けた。
「違う! 俺じゃない! 俺は悪くないんだ!」




