病みと闇(1)
「あの、本当に引き受けてくれるんですか?」
上野の前に座っている女は、ためらいながらも聞いてきた。
身長は百六十センチ強で、金色の髪をストレートに伸ばしていた。垢抜けた風貌であり、顔立ちは整っている。
さらに、綺麗に眉を描き、アイメイクを施している。一歩間違えると「ケバい」と評されるだろうが、彼女にはとても似合っていた。繁華街など歩けば、男たちの注目を集めることは間違いない。
この女、名前を東原麗奈という。見た目はどこかのモデルかタレントの卵のようであり、上野とはかなり歳の差がありそうにも見える。実のところ、彼女はまだ二十歳になっていない。
そんなふたりは今、駅前のファミレスで対峙している。傍からは、パパ活にしか見えないであろう。
言うまでもなく、上野はパパ活などに興味はない。仕事のため来たのである。
「まあ、はっきり言って気は進まない。普段なら断っていただろうね」
上野はというと、いつもと同じくぶっきらぼうな態度だ。口調も、面倒くさそうである。美少女が相手でも容赦せず、ズバズバ言っていった。
「やっぱそうですか……」
「ただね、俺はかつて君の上役に少しばかり迷惑をかけた。その借りは、返さなくてはならない。さらに、その上役には欠片ほどではあるが、敬意を抱いている。だから、今回は格安で引き受けるよ」
「ありがとうございます」
東原は、笑顔でペコリと頭を下げた。その顔は、とても可愛らしい。彼女が裏社会の人間であることを知らない男なら、簡単に騙されてしまうであろう。
翌日、上野と東原は、とあるビルの前に立っていた。
築数十年の古びた建物であり、外壁のあちこちに得体の知れない染みが付いている。
このビルは、既に取り壊すことが決まっているらしい。現在、ふたつの部屋に住人がいるが、今年中には引っ越すことになっている。
「ここです。ここで、あたしの知り合いの娘が自殺したって……」
「そうか」
「何か見えますか?」
「ああ、見える。これは、とんでもないな」
「とんでもないって、どういうことですか?」
「詳しいことは言わないのが、俺の主義だ。が、今回はひとつだけ明かそう。このままだと、君の知人は悪霊になってしまう。今のうちに、手を打たねばならない」
そこで、上野は言葉を切った。東原を見つめ、静かな口調で尋ねる。
「だがね……君に、真実を知る覚悟はあるのか?」
「私も、そこそこ修羅場は潜ってきたつもりです。どんな真実でも、受け止めます」
そう答えた東原に、上野は頷いた。
「わかった。それなら構わない。ならば、今から取りかかろう」
その日の夜、上野は大きなリュックを背負いビルの屋上に立っていた。
周囲を、鋭い表情で見回す。常人の目には、何も見えなかっただろう。だが、上野の目にははっきりと見えている。
ひとりの少女が、すぐ近くに立っていた。痩せており、汚いジャージ姿である。顔にも体にも、傷ひとつ付いていない。
だが、上野にはわかっていた。少女からは、危険な兆候が感じられる。まず特筆すべきは、その異様な顔つきだ。
彼女の顔は、人間のそれとは、確実に違うものになっていち。かつては愛らしい顔立ちをしていたのだろうが、今は歪んでいる。顔の形が、人外へと近づいているのだ。
何より、今の彼女は、この世に棲むもの全てを恨んでいる。その恨み故に、全身から凄まじい怨念を撒き散らしている。
その怨念が、強い妖気となって周辺を覆っている。これは厄介なものだ。霊感があるものがここに来たら、この妖気で確実に体調を崩してしまうだろう。
このまま放っておけば、少女は本物の悪霊と化すのは間違いない。下手をすると、他の悪霊まで呼び寄せてしまう可能性もある。
まず必要なのは、この少女の霊に何があったかだ。背景がわからなくては、話にならない。
上野は、立ったまま思案した。少女の霊は、生者への憎しみに満ちている。したがって、いきなり尋ねたところで答えてくれるとは思えない。
少しばかり時間はかかるだろうが、真相を知るまで、ここに泊まり込むしかないのだ。
既に、ビルの大家とは話し合いがついている。泊まり込む許可ももらっている、上野は、さっそく屋上にテントをセットした。
張り終わると、中に入り居心地をチェックする。
と、不意に現れた者がいる。少女の霊だ。狭いテントの中で、霊と上野は対峙する。
並の人間なら、小便もらした挙げ句に裸足で逃げ出す……いや、全裸で逃げ出すだろう。
しかし、上野は除霊師ランキングNo1の男である。内臓がはみ出た霊と一緒に、モツ焼きを食べられる勇者なのだ。この程度は、彼にとって何でもない。無視して、テント内のチェックを続行する。
チェックを終えると、上野は外に出た。リュックから、鍋やコンロといったものを取り出す。
コンロに火をつけると、鍋を置きペットボトルの水を入れる。
やがて沸騰したお湯に、袋入りのラーメンを入れた。ひとつ六十円ほどの、どこにでもあるインスタントラーメンだ。
と、そこに少女の霊が現れた。ラーメンを作る上野を、何をするでもなく眺めている。
しかし、上野は霊を無視し己のしていることに没頭している。取り出した高級フォアグラ缶を、豪快に鍋にぶち込んでいく。
出来上がったフォアグラ入りラーメンを、鍋から直接食べる。その表情は微妙であり、美味くも不味くもなさそうである。
そんな上野を、少女はじっと見つめていた。僅かではあるが、その表情は変化していた。
翌朝、上野は九時に目覚める。
例によって朝のルーティンを終えた後、リュックからビスケットの缶を取り出した。災害時の保存食として売られているものだ。
缶に記されている文字を見ながら、ひとり頷く。
「うむ、計算通り今日で期限切れだな。さすがは俺だ」
そんなことを言いながら、上野はビスケットをポリポリ食べ始める。当然、彼の前には少女がいるが、お構いなしだ。無視してビスケットを食べ続けた。
ビスケットを食べ終えると、上野はスマホをいじり出した。
画面には、わけのわからない外国の映画が放送されている。おそらく、東南アジアの作品だろう。音声は、当然ながら現地のものである。背景に流れているのは、ラップのような音楽だ。
そんな映画を、上野はボーっと観ている。時おり、クスッと笑っていた。おそらく言葉がわかっているのだろう。
そして少女は、そんな上野をじっと眺めていた。
映画が終わると、上野は何を思ったか四つん這いになった。
しかも、その四つん這いの体勢で走り出す。屋上の周りを、ぐるぐると回っているのだ。
少女は、その様子をじっと見つめている。心なしか漂う妖気の質が変わってきている……ようだった。
続いて上野は、うつ伏せの体勢になった。
そこから、右手と左足を前に出して進む。次に、左手と右足を前に出して進|む。その姿は、まるでワニのようだ。
傍から見れば、ついに上野も狂ったか……と思われる行動だろう。
だが、上野はまだ狂っていない。実のところ、この動きはアニマルフローというトレーニングなのだ。動物の動きを真似ることにより、全身の柔軟性や筋力、さらには筋肉を連動して使えるようになるトレーニングなのである。
中国拳法には、五獣拳なる流派がある。また、獣の動きを真似た型もある。ひょっとしたら、アニマルフローと同じ効果を狙ったものなのかも知れない。
霊が見守る中、上野はさらに加速していく。ワニのような動きで、屋上を這い回っていた。
そんな奇妙なトレーニングを、小一時間も行なっていたが……気が済んだのか、いきなり立ち上がる。
テントまで普通に歩いていき、スマホをチェックする。と、表情が変わった。
「何だと……」
呟くと、顔を上げ霊を見つめた。
少しの間を置き、口を開く。
「佐倉未来さんだね? 俺は、君の友人だった東原麗奈さんから依頼を受け、ここに来た除霊師だ。東原さんのことを、忘れてしまったのかい?」
途端に、霊の表情が変わった。彼女の顔から、怒りと憎しみの感情が消えていく。
同時に、屋上に充満していた妖気も少しずつ薄まっていった。
上野はというと、静かな表情で語り続ける。
「何があったかは、だいたいの事情はわかっている。ただ、君の口から詳しいことを聞きたい。よかったら、教えてくれないかな?」




