最後にして最高の一戦(2)
朝の八時、上野は目を覚ました。
テントから出ると、まず深呼吸をした。次いで正座し、額を地面につける。
「あらゆる生命の源である地球よ、今日も元気に活動できることを深く感謝する。ありがとう」
そんなことを言いながら、床に口づけした。ここは工場直前の体育館であり、大勢の人が土足で歩いた場所なのだが、上野は気にも留めていないらしい。
直後、すくっと立ち上がる。スマホをいじると、大音量のラジオ体操第一が流れる。
ギガント・ゼブラは相変わらずだ。虚ろな目で、体育館の隅にて立っている。だが、上野は気にもしていない。真面目くさった表情で気をつけの姿勢をとり、体操が始まるのを待っていた。
やがて、体操が始まる。上野も放送に合わせ、体を動かしていく。ゼブラは、ちらりと彼を見た。だが、すぐに目を逸らす。悲しげな表情で、体育館の中央を眺めていた。
体操が終わるのと同じタイミングで、ガラガラという音とともに扉が開く。
「上野さーん、配達に来ましたー」
とぼけた声ととともに現れたのは、山樫明世である。仏頂面でズンズン近づいてきて、ビニール袋を手渡す。
「はい、これ。じゃあ、渡しましたからね」
いつもと変わらず、愛想の欠片もない態度である。宅配業も一応は接客業のはずなのだが、上野に対しては礼儀を持って接する気がないらしい。
「なんだお前は、相変わらず接客態度が悪いな」
「そりゃあ態度も悪くなりますよ。こんなおっかないところに来させられて、気分いいはずないでしょうが。だからね、上野さんはモテないし友だちもいないんですよ」
言わんとするところはわかる。確かに、上野の依頼に応じてくれるのは彼女だけなのだ。
しかし、最後の余計な一言が上野に火をつけてしまった。
「ったく、口の減らない奴だ。お前こそ、たいていの男は口の悪さに耐えきれず逃げ出すだろうよ。まあ、入来の奴は優しいから、お前のそういう部分も許容できるんだろうな」
言った途端、山樫の頬が赤くなる。十代の少女のごとき反応だ。
「は、はあ!? そうたん……いや、入来くんのことは関係ないでしょうが!? それセクハラっスよ!」
「今、そうたんと言いかけたな。ふたりきりの時は、入来のことをそうたんと呼んでいるのだな」
そう言って、上野はニヤリと笑う。山樫の顔が、さらに赤くなった。
「よ、余計なお世話ですよ! そんなこと言ってるから、あんたはいい歳して結婚できないんだ! この変人除霊師!」
怒鳴りつけると、山樫はプンプン怒りながら出ていってしまった。
「言いたい放題だな。ちょっと今回はからかい過ぎたか」
そんなことを呟きながら、上野はビニール袋の中身を取り出す。紙の箱だ。
箱を開けると、中にはコッペパンがふたつに瓶牛乳が入っている。片方のコッペパンは、コロッケと刻んだキャベツを挟んでいた。
何を思ったか、上野はそのパンを高々と掲げる。
「ビバ! コロッケパン! キャベツもあるぜよ!」
叫んだかと思うと、立ったまま片手を腰に当てて食べ始める。銭湯でコーヒー牛乳を飲むオッサンのような体勢で、コロッケパンをもりもりと食べた。
次いで、もうひとつのパンに取りかかる。こちらは、あんことマーガリンが入っていた。
あんことマーガリン、この組み合わせだけでも必殺の威力なのである。しかし、上野はここからさらに一手間かけるのだ。
瓶牛乳の蓋を開けると、あんこの上に数滴たらし、混ぜ始めた。
程よく混ざったところで、再びパンで蓋をした。一口味わい、うーんと唸る。
「この味は、高級スイーツにもひけを取らない。素晴らしい」
そんなことを言ったかと思うと、猛烈な勢いで食べ始める。あっという間に、瓶牛乳ともども平らげてしまった。
食べ終えた後、しばしボーッとしていた上野だったが、何を思ったか唐突に立ち上がる。
カバンを手に、すたすた歩き外に出ていった。そんな上野を、ギガント・ゼブラは虚ろな目で見ていた。
約一時間後、上野は公園の中にいた。繁華街の中にあり、さほど広くはないが一通りの遊び道具は揃っている。もっとも、遊んでいる子供はひとりもいない。
そんな中で、上野はベンチに座りスマホをいじっている。と、そこに近づいて来るものがいた──
それは、一匹の黒猫であった。ビロードのような毛並みに、エメラルドグリーンの瞳、そして長い二本の尻尾……そう、化け猫のミーコである。
ミーコは上野を見るや、フンと鼻を鳴らしベンチに飛び乗る。
「またお前かニャ。何しに来たニャ」
毛づくろいをしながら聞いてきた。一方、上野は珍しく愛想笑いを浮かべ答える。
「ミーコ、ちょっと頼みがあるんだ。来てくれよ」
「猫の手も借りたいのかニャ? 嫌だニャ」
「そんなこと言うなよ。話だけでも聞いてくれ。な? な?」
「お前は、あたしをバカにしてるニャ。お前ごときの頼みを、聞くとでも思ってるのかニャ。二百年も生きてる化け猫さまを、何だと思ってるニャ」
そう言うと、ミーコはプイッと横を向く。
「バカになんかしてないぞ。俺は、お前を尊敬している」
「フン、そんな見え透いた御世辞で、三百年も生きてるあたしを騙せるとでも思ってるのかニャ」
黒猫が言った時、上野はカバンを開ける。
中から取り出したのは、猫じゃらしだ。赤い派手なものである。
途端に、ミーコの目つきが変わった。
「ふ、ふさふさニャ……」
口から、言葉が漏れる。一方、上野は猫じゃらしを手に取り、左右に振り始めた。
ミーコの瞳が、きらりと光る。左右に動くふさふさを、じっと目で追っている。
やがて、我慢できなくなったらしい。猫じゃらしに飛びついた──
「ニャアー!」
だが、上野はさっと躱した。しかし、ミーコはなおも手を出す。速い猫パンチで、猫じゃらしを捕らえようとする。
「ニャ! ニャニャ!」
声をあげながら、猫じゃらしを追う。上位妖怪であるはずの化け猫は、久しぶりに一匹の猫に戻っていた。
ようやく猫じゃらしを捕まえ、ミーコはさらなる攻撃を仕掛ける。寝転がった体勢から前足で猫じゃらしを捕らえ、後ろ足での猫キックを連打する──
が、数秒後にハッとなり顔を上げた。上野は、蕩けそうな表情でこちらを見ている。
途端に、ミーコは猫じゃらしを蹴散らした──
「ふざけるニャ! やっぱりバカにしてるニャ!」
怒鳴り、プイッと横を向く。だが、上野も懲りずににじり寄る。
「いや、してないから。なあ、頼むよ。協力してくれたら、梅さんとこでイカの握りを腹いっぱい食わしてやるから」
「サビ抜きだろうニャ?」
「もちろんだ」
やがて、上野はミーコと共に体育館へと入っていく。
「ミーコ、頼んだぞ」
上野が言うと、ミーコは体育館の中央を睨みつけた。
直後、奇妙な声を発した──
常人の目には、先ほどまでと変わりない風景に見えていただろう。
だが、上野の目には違うものが見えていた。体育館の中央に、リングが出現したのだ。白いマット、赤い鉄柱、三本のロープ……そう、プロレスのリングである。ただし、霊にしか見えないものだ。
そう、ミーコは卓越した妖力で、霊でも闘えるリングを作り出したのだ──
すると、ゼブラの顔つきが一変した。驚愕の表情を浮かべ、フラフラと近づいていく。
リングに入ると、何を思ったか背中からバタンと倒れ受け身を取る。スッと立ち上がったかと思うと、またバタンと倒れ受け身を取った。
一見すると意味不明の行動だが、この動作はプロレスラーにとってウォーミングアップであると同時に、リングの状態を肌で感じるという目的もあるのだ。
続いて、ゼブラはロープを両手で掴んだ。しなり具合や硬さを確かめる。と、そこで体育館の扉が開いた。
入ってきたのは、黒い神父の服を着た中年男と、シスターの格好をした幼い少女だ。中年男はまっすぐ歩いてきて、上野の前で立ち止まる。
その口から、おかしな言葉が飛び出てきた──
「上野尊師、ここで会ったが百年目であられる」




