最後にして最高の一戦(1)
「どうでしょうか? やはり、いるのでしょうか?」
聞いてきたのは、小太りの中年男だ。襟にファーの付いた厚手のジャンパー……いわゆるドカジャンを着込み、長身の上野を見上げていた。
問われた上野信次は、険しい表情で答える。
「ええ、いますね。それにしても、これは凄い。まさか、こんなものがいようとは……さすがに想定外でした」
「は、はい?」
訝しげな表情の中年男に、上野はかぶりを振った。
「いえ、何でもありません。こっちの話です」
ふたりは今、古い体育館に来ていた。上野の横にいる中年男は板屋健二、土建屋の社長だ。
今ふたりがいるダイドー体育館は、広さが五百平方メートルあり、昔から様々なイベントが行われてきた。中でも、プロレスやボクシングといった格闘技のタイトルマッチが数多く開催されており、ファンの間では聖地として知られている。
もっとも、以前から老朽化が指摘されており、一年ほど前に取り壊すことが正式に決定した。
ところが、かかわった会社に次々と不運な事故が起き、仕事に取りかかることの出来ない状態に陥ってしまう。挙げ句、全ての会社が手を引いてしまった。
話を聞いた板屋は、これほ霊の仕業だろう……と判断した。そこで、かつて仕事を頼んだことのある上野に頼んだのである。
「で、どうでしょう。引き受けていただけるのでしょうか?」
今にも縋りつかんばかりの様子でグイグイ近づいてくる板屋を、上野はさっと躱した。
「ちょっと近いです。まあ、引き受けるのは構いませんが、今回は手強いですね。少しばかり時間がかかりそうです。大丈夫ですか?」
「どのくらいかかりそうですか?」
近いと言われたにもかかわらず、なおも接近してくる板屋。しかし上野は、華麗な動きで躱しつつ答える。
「近いと言っています。そうですね……一応、一月は見てください。それ以上かかるようでしたら、お代は結構ですので」
その日の夜、上野は体育館へと入っていった。同時に、大きな荷物を中へと運び込む。
床に座り込み荷物のチェックをしていると、館内に異変が起こる──
現れたのは、恐ろしく大きな男であった。
身長は二メートル十センチ、体重は百四十キロ、手足ほ長いが顔も長い。体育館の隅で立ったまま、上野をじっと見つめている。
上野は、この男が何者であるか知っていた。本名は番場秀平であるが、世間的にはギガント・ゼブラの方が有名であろう。シマウマのようなデザインのマスクを被ったプロレスラーである。
最強の覆面レスラーとして、世界を股にかけ活躍した。十六インチキックや、ゼブラーチョップといった技で、数多くの外国人レスラーを薙ぎ倒してきたのだ。
覆面ワールドリーグという、マスクマンのレスラーを集めた世界初のトーナメントを開催したのも彼である。ライガーマスクやスターンマン、さらにはシーサーマスクといった面々が出場し、数々のドリームマッチが実現した。
ところが一年ほど前、突然の交通事故で帰らぬ人となってしまったのである。世界のプロレスファンが、このニュースを知り涙を流したと言われている。
そのギガント・ゼブラが、ここにいるのだ。当然ながらマスクは被っておらず、ガウン姿である。足には、リングシューズを履いていた。能面のごとき表情のない顔で、立ったまま上野を見つめている。
無念なことがあるから、この体育館に出てきたのだろう。では、その無念なこととは何なのだろうか。それが、上野にはさっぱりわからない。
仕方ないので、上野はとりあえずテントを張ることにした。体育館でのソロキャンプである。こんなことをするキャンパーは、上野くらいのものであろう。
テントを張り終えると、上野はコンロでコーヒーを沸かした。マイカップで飲みつつ、ゼブラの様子をチラ見する。
ゼブラは、相変わらず動かない。何を考えているのか、一点をボーッと見続けている。
何か目的があるのだろうが、今のところ全くわからない。さて、とうしたものか……などと思いつつ、上野はスマホをいじる。
その時、ある考えが浮かんだ。
「これは、もしかしすると……そうか。そういうことか」
ひとり呟きながら、上野はスマホを操作した。出てきた画面を、じっと見つめる。
ややあって、ギガント・ゼブラに視線を移した。ゼブラは、上野のことなど見ていない。寂しそうな顔つきで、じっと体育館の中心を見つめている。
「なるほど、だいたいわかって来たぞ。だがな、これは非常に厄介だ。さて、どうしたものか……」
上野は、じっと考えた。これは、どうすればいいのだろうか……。
どのくらいの時間が経っただろうか。
突然、上野の顔が明るくなった。何かを思いついたらしい。スマホを手に取り、ひとりブツブツ言いながら操作し始める。
やがて手を止め、画面をじっと見つめる。その顔には、どうなるだろうか……という期待と不安の表情が浮かんでいた。普段、マイペースで生きている上野にしては珍しいことだ。
それから、数分が経過した。彼のスマホに、メッセージが届く。
画面を見た上野は、何を思ったかスッと立ち上がった。そのまま、くるくる回りながら体育館内を移動し始める。
無表情のまま、アイススケートでもしているかのように単独でくるくる回りながら、体育館を端から端まで移動しているのだ。嬉しいのか楽しいのか悲しいのか怒っているのか、全くわからない。
しかし、途中でバタリと倒れた。どうやら、目が回ってしまったらしい。そのまま、床で仰向けに倒れていた。
ゼブラはというと、そんな上野の奇行を虚ろな目で見ているだけだ。何の反応もしていなかった。
どのくらい倒れていただろうか。
しばらくすると、上野は何事もなかったかのようにムックリと起き上がった。荷物の置いてある場所に戻ると、床の上に小型の鍋やガスコンロ、さらには水の入ったペットポトルなどを設置する。
鍋をガスコンロに置き水を入れ、火をつけた。さらにインスタントラーメンを入れ、生卵を落とす。
出来上がったラーメンを、鍋のまま食べ始めた。フウフウ言いながらも、美味しそうに麺をすすっていく。
ふと、前に仲良くなったポチローのことを思い出した。送り犬という妖怪でありながら、一緒に社交ダンスを踊った仲である。あの日のパーティーは、本当に楽しかった。
「ポチローにも、これを食べさせてやりたかったな。今度、一緒にキャンプしてみるか」
その時、さらに入来のことも思い出した。
あいつは、根っからのインドアだ。今度、無理やりにでもキャンプに誘い薪拾いでもやらせようか……などと考えていた時だった。
また、別の考えが頭をよぎる。入来が来るとなると、あの配達娘こと山樫明世もついて来てしまうのではないだろうか。
上野の妄想は広がっていく。四人、いや三人と一匹で楽しくキャンプをしているはずが、大自然の中で戯れるふたりの映像へと変わっていく。
はしゃぎすぎて着衣のまま川に入り、笑いながら水をかけ合う入来と山樫。
その後ふたりは、びしょ濡れになった服を、たき火で乾かす。やがて両者は見つめ合い、どちらからともなく手が伸び、お互いの体に触れる。そして、入来と山樫は熱い口づけを交わす。
こうなると、若いふたりは止まらない。大自然の中で、獣のように愛し合う入来と山樫。
その横で、仲良く社交ダンスを踊る上野とポチロー……。
そこで、上野の妄想は止まった。顔をしかめ、かぶりを振る。
「何とおぞましい光景なのだ。さしずめ幻魔大王と閻魔大王が戦っているかのごときカオスさだ」
わけのわからないことを呟くと、上野はスマホを見始める。
そんな上野を、ゼブラは虚ろな目で見ていたが……動きが止まると、すぐに体育館の中心へと視線を移す。
長い顔には、ひどく寂しげな表情が浮かんでいた。




