悪霊のBAN踊り(3)
上野は、言われた通り下を見てみた。
そこには猫がいた。白い毛は長くふさふさとしており、瞳は青い。前足を揃え腰を地面に着けた姿はとても可愛いらしく、控えめに言っても美猫であるのは間違いないだろう。
ただ尻尾はふたつに分かれており、これが何を意味するか上野にはわかっていた。
「お前、猫又か。どうしたんだ?」
上野が尋ねると、猫又はすました顔で口を開いた。
「はじめまして。わたくし、シロッコと申します」
「し、シロッコ?」
「はい。おかしいですニャ?」
「いや、おかしくはないが……念のため聞く。お前は、女の子なんだよな?」
「そうですニャ。わたくし、どこか変ですかニャ?」
「変ではない。断じて変ではない。むしろ、変なのは俺の方だ。お前の名前を聞くと、思わず飛行形態になりそうになる」
「はい? 何のことですニャ?」
「何でもない。こっちの話だ。とりあえず、中に入れ」
上野はドアを開き、猫を招き入れた。
「で、何しに来たんだ?」
「実は、お願いがありますニャ。あなたに、わたくしの踊りを見ていただきたいのですニャ」
「は? 踊り?」
「そうですニャ。古来より、我々猫又は踊りが大好きなのですニャ。時には、これと見込んだ人間に踊りを披露することもありますニャ。人間の中には、我々の踊りを絵に描き後世に伝えた者もいるとか聞きますニャ」
言われてみれば、浮世絵の中には、猫が踊る姿を描いたものもある。だが、自分のような者が猫又の踊りを見てもいいのだろうか。
「俺は、踊りのことなど何も知らんのだぞ。そんな俺に、踊りを見せてどうしようというのだ?」
「あなたさまは、人間の中でも屈指の力を持つ除霊師だと聞き及んていますニャ。そんなあなたさまだからこそ、わたくしの踊りを見ていただきたいのですニャ」
「そうか、わかった。見るだけなら構わんぞ」
上野が頷くと、シロッコはすっと立ち上がる。後ろ足だけで立っている姿も、また優雅なものであった。普段は四足歩行の猫又も、踊る時は二足歩行になるのだろうか。
見ていると、シロッコは前足を器用に動かし踊り始める。前に行ったかと思うと後ろに下がり、尻尾をくねらせクルリと回る。
踊り自体は、非常にゆったりとしたテンポだ。振り付けも複雑なものではない。にもかかわらず、猫又の動きは素晴らしいものだった。猫の可愛らしさ、また猫に特有の体のしなやかさや柔軟さが、えも言われぬ美しさを醸し出している。
人間のダンサーでは、どう頑張っても表現できるものではないだろう。高度な動きも、考え抜かれた振り付けも、しょせん人間の浅知恵だ。この猫又の前では、薄っぺらいものに見えてしまう。まさに、大いなる自然の生み出した芸術である。上野の口から、思わず感嘆の声が漏れそうになった。
しかし、上野は我慢した。この名画のごとき風景に、己の声のような余計なものを加えたくなかったからだ。
だが、そこに邪魔が入った。またしても、声が聞こえてくる──
「いちま〜い、にま〜い……」
その時、上野は声の聞こえてくる方向をジロリと睨みつけた。これは、さすがに黙っていられない。
「シロッコが真剣に踊っている最中だろうが。邪魔をするな」
低い声で凄むと、声は止んだ。シロッコは軽く会釈し、再び踊りを再開する。
優雅で心地よい時間が流れていった。猫又の踊りを見ていると、ここが悪霊の巣窟ではなく神の住む世界なのではないかと錯覚してしまう。いつまでも、この時間が続けばいいと思った。
しかし、楽しい時間もいつかは終わる。シロッコの動きは止まった。四つ足の姿勢に戻り、ぺこりと頭を下げる。
「わたくしの踊り、いかがでしたニャ?」
「先ほども言ったが、俺は踊りのことなど何も知らん。したがって、技術的な面からの批評は出来んぞ。それでもいいのだな?」
「はいですニャ」
「お前の踊りを見ていたら、とても良い気分になれた。お前の踊りに対する気持ちが、見ているこちらにまで伝わってきたよ。お前は、本当に踊ることが好きなのだな」
「そうですニャ。わたくし、踊ることが大好きですニャ」
「その踊りを愛する気持ち……それこそが、何より大切なのだと思う。ボクシングの名トレーナー、カス・ダマトは、闘う意志は技術を凌駕するという名言を残している。今の踊りを見て、その名言の正しさを感じたよ」
「そうですかニャ。ありがとうございますニャ」
「何を言っている。礼を言わねばならぬのはこちらだ。見事なものを見せてもらった。本当にありがとう」
上野の方も頭を下げる。と、そこであることを思い出した。
「そういえば、ミーコという猫又を知っているか?」
「知ってるも何も、ミーコさまは有名ですニャ。猫又の世界では、神のような存在ですニャ。あなたさまのことを知ったのも、ミーコさまから聞いた話がきっかけですニャ」
「そ、そうか。あいつ、凄い奴だったんだな……」
「では、そろそろ失礼しますニャ。今夜は、ありがとうございましたニャ」
そう言うと、シロッコは尻尾をゆらゆらさせながら消えてしまった。
気がつくと、朝になっていた。いや、朝というより昼近くなっている。いつの間にか眠っていたらしい。上野は、むっくりと起きる。
「いやあ、昨日は素晴らしいものを見せてもらった」
そんなことを言いながら、朝のルーティンであるラジオ体操を行なう。その顔には、清々しい表情が浮かんでいた。
ラジオ体操を終えると、上野はスマホをいじり出した。と、その目がすっと細くなる。
画面には、いかめしい顔の中年男が映っている。誰かと思えば、除霊師の鷲尾だ。上野に、ここの仕事を押し付けた張本人である。
その鷲尾が、なぜかネットニュースに載っているらしい。何事かと思い、記事を読んでみる。
だが、大したことはなかった。鷲尾の乗っていた車が、酒気帯び運転の車に当て逃げをされただけの話らしい。もっとも、加害者はどこぞのアイドルグループの一員だ。そのため、こんな大事になってしまったようである。
「こんな面倒くさい仕事を俺に押し付けるから、神の怒りを買ったのだ」
そんなことを呟きながら、上野は食事の支度を始めた。今回の食事は、一袋五十円のインスタントラーメンだ。鍋にお湯を入れ、ラーメンを入れる。作り方は、いたってシンプルだ。特に工夫などはしていない。
茹でた麺を器に移したが、何の変哲もない素ラーメンである。
が、その出来上がったラーメンの中に、ひとつ一万円近くする高級カニ缶を容赦なくぶち込んでいった。箸で混ぜて、麺をすすっていく。
高級なのか低級なのか、よくわからないラーメンを食べながら、上野はテレビの電源を入れる。
すると、またしても井戸が映っている。どこの局の番組であろうか。妙に画質が悪い。
観ていると、昨日と同じく井戸の中から手が出てきた。やがて、全身が登場する。
こちらに近づいて来るかと思いきや、女は画面の外へと消えてしまった。
やがて、白い丸テーブルを担いで現れる。女は、丸テーブルをどんと置いた。
また画面の外に消えたかと思うと、今度は、白い椅子を持ってくる。上野は、首を傾げつつ観ていた。
さらに女は、どこからか陶磁器のティーポットとティーカップを持ってきた。椅子に座り、紅茶を注ぎ飲み始める。顔は、カメラの方を向いていた。
どうやら、あたしは優雅な午後の時間を過ごしているのよ……というアピールをしているらしい。
「あいつは何をやっているのだ。アホなインスタグラマーみたいだな」
ボソッと呟くと、チャンネルを替え再びラーメンを食べる。
ラーメンを食べ終えた上野は、何を思ったか服を脱ぎ捨てる。そのまま、鼻歌混じりに風呂場へと直行した。ご機嫌な様子で体を洗い、ザブンと湯船に飛び込む。
その後は、奇怪な鼻歌と共に湯船に浸かっている。顔には、楽しそうな表情を浮かべていた。ここは悪霊の巣窟のはずなのだが、昼間から入浴という何ともお気楽な生活だ。
そんな上野の態度を見て、悪霊たちも黙ってはいられなくなったらしい。風呂場に、ひとりの女が姿を現した──
真っ白い顔に黒髪、白く袖のないワンピース姿で湯船の横に立ち、上野を見下ろしている。その両腕には、数カ所の傷痕があった。
しかし、上野に怯む気配はない。チラリと見ただけで、再びフンフンフンと鼻歌を唄い出す。
やがて、上野は湯船を出た。全裸のまま、リビングへと行く。
何を思ったか、そこで踊り出したのだ。昨日の猫又の振り付けを真似し、両手を左右に振りながら進んでいく。
ふざけた姿を見て、女の表情がさらに険しくなった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
不気味な声を発しながら、女はゆっくり上野の周りを回っている。
しかし、上野は完全に無視していた。猫又の踊りを真似ることに、全神経を注いでいる。
その時だった。またしても、ドアを叩く音が聞こえてきた。
上野は、訝しげな表情を浮かべる。いったい誰が来たのだろうか。時計を見れば、五時を過ぎたところだ。猫又が来るには、少々早い気もする。
とりあえず服を着てドアを開けてみるが、誰もいなかった。もしやと思い下を見ると、今度は犬が座っている。
「おいおい、今度は犬か……」




