悪霊のBAN踊り(1)
異様な風景だった。
まず、目につくのは一軒の家だ。一見すると、ごく普通の民家である。二階建てで壁は白く、小洒落たデザインの塀に囲まれていた。広くはないが庭もある。中から、子供の声でも聞こえてきそうな雰囲気だ。
しかし、近所には家がなかった。家の両隣は更地になっているし、周囲を見渡しても住居と呼べるようなものはない。この家だけが、ぽつんと建っていたのだ。
そんな不気味な家の前に、ふたりの男女がいる。女の方は二十代半ば、あるいは三十代だろうか。髪は肩までの長さで、意思の強そうな顔立ちである。ビジネススーツを着ており、緊張した面持ちで口を開いた。
「鷲尾先生、どうでしょうか?」
おずおずと尋ねると、男は首を横に振る。こちらの年齢は五十代、和服姿で長い髪を後ろで束ねている。また、濃い髭が口の周りを覆っていた。目つきは鋭く、筋骨たくましい体つきだ。武術の師範のごとき雰囲気を漂わせている。
もっとも、この鷲尾道齋の職業は武術家ではない。
「私は、除霊師を始めて三十年になります。しかし、こんなレベルのものは初めて見ました……これは、ただの霊ではありません。もはや、人間に害を為すためだけに存在している悪霊です。しかも、時とともに霊の数も増えているようです。今、この瞬間にも強さを増しているのですよ。放っておいたら、この町全体を滅ぼしかねません」
重々しい口調で、鷲尾は答えた。
この家は、かつて老夫婦が住んでいた。ふたりには子供がなく、夫婦が亡くなった後は空き家となってしまった。
その後、しばらくして異変が起こる。隣近所の家で、立て続けに怪現象が起きたのだ。住民たちは、気味が悪いと引っ越していった。
いったい何事が起きたのかと、不動産会社が調査したところ……怪現象の源は、空き家にあるらしいということがわかった。
不動産会社は、さっそく有名な霊能者や除霊師たちを送り込む。しかし、ことごとく失敗に終わった。大半の者が、一晩も持たず逃げ出していったのである。
最後に選ばれたのが、この鷲尾であった。
「そんな、恐ろしい……今すぐにも、お祓いをお願いします」
女の言葉に、鷲尾はかぶりを振った。
「申し訳ありません。私には無理です」
すると、女の表情が変わる。
「ちょ、ちょっと待ってください! どういうことですか!?」
「言葉の通りです。私には、ここに棲む霊を祓うことなど出来ません。奴らには、私の技など全く通用しないでしょう。たとえるなら、巨大な白鯨モビィ・ディックを小舟と銛だけで仕留めんとするようなもの。一瞬で返り討ちに遭うだけです」
すると女は、縋り付くような顔つきで鷲尾の肩に触れる。
「私たちには、先生しかいないんです! これまで、何人もの霊能者や祈祷師に頼みましたが、ことごとく失敗しました……もう、先生しかいないんです! 何とかしてください!」
「いくら頼まれても、無理なんですよ。私では、太刀打ちできません。ただ、あの人なら……」
「いるのですか? 祓える人がいるのですか?」
必死の問いに、鷲尾は頷いた。
「酒呑童子を狩るには、源頼光。白鯨を狩るには、エイハブ。化け物には、化け物をぶつけるしかありません。この家に憑いた霊を祓えるのは、私の知る限り……あの男しかいないと思います」
「あの男、とは?」
「私の知る限り、日本最強の除霊師です。彼で祓うことが出来なければ、誰の手にも負えないでしょうね」
「でしたら、是非その人にお願いします!」
「お願いするのは構わないのですが……ただ、ひとつ問題があります。その男、大変な変わり者なんですよ。筋金入りの偏屈者でして、機嫌を損ねると終わりです。向こうが何を言おうと、黙って従ってください。いいですね?」
「わかりました」
翌日、あの男が件の一軒家に越して来た。誰かは言うまでもない、我らが上野信次である。同業者である鷲尾に頼み込まれ、嫌々ながら引き受けたのだ。
まず上野は、大きなリビングにて荷物をチェックする。その時、異変が起きた──
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり」
不意に、部屋の隅から聞こえてきた声。上野は、そちらを向いてみた。途端に、その顔が歪む。
いつの間に現れたのだろうか、異様な格好の男が立っているのだ。当然ながら、ドアから入ってきたのではない。窓から入ってきたわけでもない。音もなく、そこに出現していたのだ。
男の顔は、とても美しかった。肌は舞い落ちてくる雪のように白く、黒い髪は美しくつやがある。目鼻立ちは彫刻のように整っており、おとぎ話に登場する白馬に乗った王子さまのようだ。百点満点で百点を付けるしかない、文句なしの美形である。偏屈で毒舌の上野ですら、その事実は認めざるを得なかった。
ところが、その常軌を逸した服装がイケメンぶりを台無しにしていた。頭には美しい装飾の施された黄金の冠を被り、紺色のマントを羽織っている。しかしマントの下は、パンツを履いているだけだ。
さらに詳しく言うと、彼の履いているのは白ブリーフである。もはや、バラエティ番組における罰ゲームの扮装だ。あるいは、コントの登場人物か。
いきなり家の中に現れた、王冠を被りマントを羽織ったブリーフ男。並の人間ならば、驚きのあまり声も出なかっただろう。
だが、上野は違っていた。
「お前、何者だ? 何しに現れた?」
面倒くさそうに尋ねたところ、男は爽やかな笑みを浮かべ口を開く。
「やあ、はじめまして。僕の名は、アマクサ・シローラモさ。何者かと言うと、さしずめ魔王といったところかな」
いきなり魔王ときた。こんなことを言われれば、相手の正気を疑うのが当たり前であろう。
しかし、上野にはわかっている。目の前にいら者は、格好こそふざけているが、間違いなく人間ではない。全身から漂うものは、紛れもなく妖気である。それも、恐ろしく濃いものだ。
「となると、はだかの魔王さまというわけか。なんてベタな奴なんだ」
言いながら顔をしかめる上野に、シローラモは大げさな動きでかぶりを振ってみせる。
「ベタとは、ずいぶんな言い草だねえ。これでも、魔界ではそこそこのランクにいるんだよ」
「ほう、そうか。で、そんな偉い魔王がここで何をしている?」
「実はね、君が来るのを待っていたんだ。ここで騒ぎを起こせば、最強の除霊師である君が来てくれると思っていたからね」
「俺は最強ではない。そもそも、俺を呼び出すために悪霊を召喚したのか。本当に、はた迷惑な奴だな」
「ずいぶんと余裕だねえ。しかし、これから始まる恐ろしい試練を前にして、その余裕を保っていられるかな?」
「いや、お前のその格好をさせられる方が、よっぽど恐ろしいんだが……」
上野の口から出た、実にもっともなツッコミの言葉。だが、シローラモは全く動じていない。
「そんなことを言っていられるのも、今のうちさ。これから、君は本物の地獄を見ることになる。フフフフフ……ハハハハハハ!」
狂気が感じられる高笑いの声を残し、シローラモは消えた。現れた時と同じく、パッと消えてしまったのだ。
ひとり残された上野は、ハァと溜息を吐く。
「面倒な奴とかかわってしまった。やっぱり断ればよかったな」
ブツブツ言いながら、持ってきたものの整理を再開した。今回は、いつにも増して荷物が多い。リュックと、スーツケースふたつという大荷物なのだ。
それらを、ひとつひとつ丁寧にチェックしていった。




