化け猫物語(3)
矢野真奈は混乱していた。
自分は今、どこにいるのか。なぜ、ここにいるのか。
そして、目の前にいる三毛猫は……。
彼女は、女子刑務所に収容されている受刑者だ。覚醒剤の所持使用さらに売買という罪を犯し、逮捕され三年の刑を言い渡される。
受刑者となってから、半年が経過した。最近、ようやく刑務所での生活に慣れてきた気がする。
今夜も、真奈は普通に刑務作業を終え、就寝時間になり独房で眠りについた……はずだった。
しかし今、彼女は何もない部屋にいる。家具はひとつもなく、古い木造アパートの一室。だが、見覚えはある。逮捕される前に住んでいた部屋にそっくりだ。
そして、目の前にいる猫。
「ミ、ミケゾウ?」
思わず呟いていた。そう、真奈は……この三毛猫を知っている。
・・・
ミケゾウを拾ったのは、五年前のことだ。
当時、真奈はアルバイトに明け暮れる生活をしていた。その日は夜勤であり、疲れきった体を引きずり公園を歩いていた。彼女の家への最短距離が、公園を突っ切るルートだったのである。
虚ろな顔で、公園の草むらを歩いた時だった。耳に妙な音が入る。
みい。
疲れていたにもかかわらず、思わず立ち止まっていた。辺りを見回す。
草むらに、一匹の仔猫がいた。とても小さく、動きもおぼつかない。かろうじて目は開いているが、放っておいたら確実に死んでしまう。
考えるより先に、体が動いていた。真奈は仔猫を抱き上げ、家に連れ帰る。ネットで情報を仕入れ、コンビニに駆け込み必要な物を買い揃えた。疲れていたにもかかわらず、体を綺麗にしてあげ餌を与える。
仔猫の方はというと、真奈に一瞬で懐いた。暇さえあれば、喉をゴロコロ鳴らしながら彼女にじゃれついていく。体も、すくすくと大きくなった。
真奈は、そんな三毛猫にミケゾウと名付け可愛がっていた。後にミケゾウが雌であることを知ったが、そんなことはどうでもよかった。彼女と三毛猫は、アパートの一室で仲良く暮らしていたのである。
そんな幸せな生活に、悪魔がそっと忍び寄る。
ある日、真奈はひとりの男と知り合った。顔がよく遊び慣れており、口も上手い。真奈はたちまち男に惹かれていった。
だが、男の正体は覚醒剤の売人であった──
いくらも経たぬ間に、真奈はヤク中へと変えられていた。覚醒剤なしでは、いられない体になる。真奈は自宅にも帰らず、売人の家に入り浸るようになっていた。白い悪魔に冒された頭は、ミケゾウのことなど浮かぶことすらない。やがて彼女は、売人の手伝いをするようになる。
だが、そんな生活は長く続かない。売人の家に警察が踏み込んだ。真奈は、売人と共に逮捕される。容疑は、覚醒剤の売買だ。当然ながら、単なる使用や所持より遥かに重い罪である。
裁判の結果、初犯であることが考慮され三年の実刑判決を言い渡される。
・・・
その後は、ずっと刑務所で過ごしてきた。
ところが、今は得体の知れぬ部屋にいる。しかも、目の前にはミケゾウに似た猫が座っているのだ。
混乱している真奈だったが、不意に声が聞こえてきた。
「おい、あいつのことを忘れたのか?」
真奈は、慌てて声のした方向を向く。
そこには、険しい表情の男が座っていた。彫りの深い顔で、目つきは鋭い。手足は長く、鍛えられた体つきをしている。
真奈は、思わず飛び上がった。
「だ、誰!?」
「誰だろうが、そんなことはどうでもいい。お前、あいつのことを忘れたのか?」
言いながら、三毛猫を指差した。
真奈は、ためらいながらも答える。
「ミケゾウ、ですよね?」
「そう、あんたの飼い猫のミケゾウだ」
想像通りだった。真奈は複雑な思いを感じながら、ミケゾウに視線を移す。
三毛猫は、真っすぐこちらを見つめていた。その瞳には、昔と変わらぬ愛がある……。
「どうしてここに?」
知らないうちに言葉が出ていた。なぜ、ミケゾウがここにいるのだろう。そもそも、ここはどこだろうか。
すると、男は溜息を吐いた。
「あいつは、一年前に死んだ。だが、未だ霊となって現世に残っている。この部屋から、出ようとしない。その理由が何なのか、あんたにわかるか?」
憎しみのこもった声だ。その憎しみが、自分に向けられているのは明らかだった。
しかし、真奈は男のことなど見ていなかった。その目は、ミケゾウに向けられていた。
「死んだ……」
呆然とした顔で呟いていた。
ミケゾウは、どこかで野良猫となって逞しく生きているのだろう。今まで、そんな風に考えていた。
それ以前に、逮捕されてからの日々はあまりにつらく大変であった。己の問題に向き合うのが精一杯で、外のことなど考える余裕がなかった。
まさか、そんなことになっていようとは──
「そうだ。あんたが売人の彼氏と覚醒剤キメてヨレまくっている間、ミケゾウは飯も食わずにあんたの帰りを待っていた。挙げ句、飢え死にしちまった。だが、ミケゾウは霊になった。あんたの帰りを、じっと待ち続けたんだ」
男は、一方的に語り続ける。その言葉のひとつひとつが、真奈の心をえぐっていった。それは、殴られるよりもつらいものだった。
彼女は何も言えず、俯くことしか出来なかった。
「このアパートは、近々取り壊される予定だ。いろんな人間が入って来た。それを見たミケゾウは怒った。あいつにとって、ここはあんたの帰って来る場所だ。入って来た人間を、片っ端から追い払った。全ては、あんたが帰って来ると信じていたがゆえの行動だ。あんたへの愛が、ミケゾウを妖怪に近い存在へと変えたんだよ」
男の口調が、どんどん強いものになっていく。その奥に潜む感情が、はっきりと感じられた。真奈はいたたまれず、唇を噛み締める。今になって初めて、己の犯した罪の重さに気づいた。
そんな真奈に向かい、男はなおも語り続けた。
「ミケゾウは、自分が死んだことも知っている。あいつは、あんたにお別れを言ってからあの世に逝きたい……ただ、それだけの理由でこの世に留まっていたんだ。さあ、見送ってやれ」
その言葉に、真奈は顔を上げた。
ミケゾウは前足を揃えた姿勢で、じっと彼女を見つめている。大きな瞳には、溢れんばかりの親愛の情があった。
少しの間の後、その口が開く。にゃあ、と鳴いた。
直後、ミケゾウの体は白い光に包まれていく。真奈は、その不思議な光景をただただ見ていることしか出来なかった。
やがて、その姿は完全に消えた。
「ミケゾウはな、こう言ってたよ。仔猫の時、公園で親猫とはぐれた。たったひとりで、寂しくて悲しくて怖くて仕方なかった。でも、あんたが家に連れ帰り、美味しいご飯を食べさせてくれた。本当に嬉しかった、ってな。あんたみたいなクズ女に、ずっと感謝していたんだよ」
男の冷酷な声が、室内に響き渡る。だが、真奈は何の反応も出来なかった。
呆然とした表情で、その場に座り込んでいた。そんな彼女に、男は容赦なく追い撃ちをかける。
「はっきり言うよ。俺は、あんたが嫌いだ。あんたのような女は、今すぐ両手両足をへし折ってやりたい。だが、そんなことをミケゾウは望んでいない。だから、あんたを無傷で刑務所に帰してやる。自分の犯した罪と、きっちり向き合うんだ」
気がつくと、刑務所に戻っていた。独房を、補助灯のほのかな明かりだけが照らしている。
そして真奈は、布団の中にいた。先ほど見た、ミケゾウの顔が脳裏に浮かぶ。その大きな瞳には、自分への感謝の念があった。
途端に、涙が溢れる──
感謝など、される覚えはない。覚醒剤などやっていなければ、もっと長生きさせられた。
逮捕されなければ、今も一緒に暮らせていたのかもしれないのだ。
そんな自分を、ミケゾウは今まで待っていてくれた──
「ミケゾウ……ごめんね……」
真奈は、ついに耐え切れなくなる。
布団の中で、声を殺し泣いた──




