倉庫ウォリアーズ(2)
翌日、上野は朝八時に目覚める。
張っておいたテントの中で、上体を起こした。あくびをした後、テントから出て周囲を見回した。
霊たちは相変わらず……かと思いきや、またひとり増えている。今度は、昔の駅員の制服を着た男だ。片手には、昔のキップ切りを持っている。一見すると無傷のようだが、よくよく見れば切断された下半身の上に無理やり上半身を乗せていた。微妙な差ではあるが、位置がズレている。
駅員風の男もまた、他の霊たちと同じ場所にいる。上野を睨んでいる点も同じだ。
しかし、上野は平然としている。
「また増えたな」
ボソッと呟くと、スマホを操作する。と、またしても軽快な曲が始まった。上野の日課ルーティンである朝のラジオ体操だ。
音楽に合わせ、ぴょんぴょん飛び跳ねる上野。と、そこに新たな霊が出現する、
今度は、料理人だ。右手に中華包丁、左手には中華鍋を持っている。まるで剣と盾で武装した剣闘士のような凛々しい姿である。惜しむらくは、腹にどでかい穴が空いていることだ。
そのコックもまた、皆と同じ場所で上野を睨んでいる。その有様は、もはや密集などというレベルではない。狭い場所に、何人入れるかチャレンジしているユーチューバーのようである。
ラジオ体操が終わると、上野は清々しい顔で座り込む。ガスコンロでお湯を沸かし、コーヒーを飲む。
次いで、水とお湯をブレンドしたぬるま湯をジョッキに注ぐ。さらに、ジョッキの中に何かの粉末を入れた。
ジョッキに蓋をし、立ち上がった。ジョッキを両手に持ち、思いきり振る。まるで創作ダンスを踊るように、ジョッキを全身でシェイクした。
やがて、上野の動きが止まる。ジョッキをちゃぶ台の上に置き、蓋を開けた。
あれだけ振ったにもかかわらず、粉末はよく溶けていない状態だ。小さな固まりが、いくつも浮いている。
上野は、それをどうにか飲み干した。
「ここで一首。プロテイン お湯でシェイクし ダマとなる まずくてたまらん 試してはならん 上野信次」
ボソッと呟くと、今度はカップラーメンを取り出す。お湯を注ぎ、蓋をした。
直後、いきなり立ち上がる。右手と左手を上にあげたかと思うと、体をくねらせ始める。その様は、海中でゆらゆら揺れる海草のようだ。
霊たちの視線を一身に集めている中、上野は気にも留めず海草ダンスのような動きをしている。そんな上野を、霊たちは遠くからただただ眺めていることしか出来なかった。
やがて、上野の動きがピタッと止まる。さっと座り込み、カップラーメンの蓋を開けた。
途端に、渋い表情になる。
「うむ、五秒ほどのズレがあるな。俺もまだまだ修行が足らん」
ボソッと呟きながらも、カップラーメンを食べる。時おり手を止め、ウンウンと頷きながら食べる。高級グルメを味わう美食家のごとき態度だ。
やがて食べ終えると、持ってきたゴミ袋に容器を入れた。
その時、倉庫の扉が開く。ガラガラという金属音が鳴り響いた。
続いて、Tシャツ姿のいかつい中年男が入ってくる。身長は上野より低く、百七十センチ台だろう。一見するとずんぐりした体型だが、シャツの袖から出た二の腕には、筋肉の盛り上がりがあった。手のひらは異様に分厚く、拳にはタコがある。髪はだいぶ薄くなっているが、鋭い目に宿る闘争心は未だ薄れていない。
その男に、上野は恭しい態度で深く礼をする。
「黒崎師範、よくいらしてくださいました」
その言葉に、男は顔を歪めた。
「師範はやめてくれ。今の俺は、ただの指導員だ」
・・・
この男は、黒崎健剛。上野がこの世で心から尊敬する数少ない人間のうちのひとりである。
武想館拳心道空手の五段位を取得しており、第十五回全日本大会では初出場にして初優勝という快挙を成し遂げている。さらに第五回世界大会では、二回戦で当時の優勝候補筆頭と言われていたロシアのイワン・ハシミコフと対戦した。
身長二メートル、体重百二十キロという体格でありながら華麗な足技をも使いこなすイワンに、黒崎は怯むことなく猛然と襲いかかる。その様は、巨象に立ち向かう虎のようであった。会場の熱気は最高潮に達し、観客は喉が潰れんばかりの大きな声援を送る。
勝負は再延長までもつれ込み、最後は僅差の判定で黒崎が敗れた。
ところが、勝者イワンは試合後の控室で倒れ込む。玉砕覚悟の黒崎の猛攻により、回復不能なほどのダメージを負っていたのだ。最終的に、イワンはその後の試合を棄権する。勝ったはずのイワンが負傷のため欠場、という異例の事態が起きてしまったのだ。
この試合により、黒崎の名は伝説となる。空手界、いや格闘技界でも最強ではないかと言われるほどになった。
だが、そんな黒崎を悲劇が襲う──
河原にて偶然、遭遇してしまった事件。五人の若くガラの悪い男たちが、ひとりの半裸の女性に群がっている。どう見ても、遊んでいる風景ではない。
黒崎は、凄まじい形相で拳を振るい、あっという間に全員を叩きのめす。その後、駆けつけた警官に女性の身を任せ、己は去っていった。
襲われていた女性を助け、五人の暴漢を成敗した……どう見ても、その行動は正義のはずだった。ところが、女性が被害届けを出さず証言も拒否したため、この事件は「黒崎が五人の男性に対し暴力を振るいケガをさせた」という傷害罪とみなされてしまう。しかも空手五段の経歴を重く見られ、殺人未遂罪まで付けられてしまったのだ。
それからの十年間を、黒崎は刑務所で過ごした。
・・・
そんな経歴の黒崎と上野の付き合いは、かれこれ三年になる。共通の知人を介して知り合ったのだ。大半の人間に対し傍若無人な態度の上野ではあるが、黒崎に対しては礼を尽くす。なぜかといえば、この男こそ本物の武術家である……と高く評価しているからだ。
「なあ上野、ここで何をすればいいのだ?」
尋ねる黒崎。その顔には、僅かながら困惑の表情が浮かんでいた。さすがの武術家も、この異様な雰囲気には少しばかり困っているようだった。
「ここで、空手の指導をしてください」
対する上野の表情は、とても爽やかなものだった。いつものマイペースな変人ぶりを、少し押さえているようにも見える。
ただ黒崎の方はらその提案に驚いているようだった。
「何? ここでやるのか?」
「そうです。お願いします」
奇妙な光景であった。
広い倉庫内で、たったふたりの男が空手をやっているのだ。黒崎は空手着姿で、上野は動きやすいジャージ姿である。
「正拳中段突き! 用意! 構えい!」
「はい!」
「次は、後屈立ち手刀受けだ!」
「はい! セイヤー!」
「下段払い!」
「セイ! セイ!」
黒崎から次々と飛んでくる指示に従い、上野は気合いと共に指示に合った動作をしていく。時おり黒崎より口頭で注意を受けると、短く「押忍」とだけ答え動きを修正していく。
そんな両者のやり取りを、霊たちは隅に集合し見つめていた。いつも通りの光景である。
ところが、今回は違う展開が待っていた。やがて、ひとりの霊が場所を離れる。ふらっと上野の後ろに並んだのだ。
そのまま、見よう見まねで空手の動きを始める。
上野はというと、素知らぬ顔で空手の稽古を続けていた。後ろの霊も、一緒に稽古している。
すると、またしても驚くべきことが起きる。またひとり、霊が動いた。ふらっと移動し、上野の後方に並ぶ。黒崎の気合いに満ちた号令に合わせ、空手の稽古を始めたのだ。
さらに、他の霊たちも動く。上野の後ろに横一列に並び、見よう見まねで空手の稽古を始めた──
上野が何をしようが、動く気配がなかった霊たち。それが、いきなり現れた武術家の存在により次々と動き出したのだ。黒崎に対し、崇拝の念がこもった視線を向ける霊も少なくない。
一方の黒崎だが、霊を見ることは出来ない。だが、長年磨いてきた武術家としての勘が彼に伝える……ここには、大勢の霊がいることを教えてくれるのだ。普通の人間ならば、確実に体調を悪くしていたはずだ。
にもかかわらず、黒崎は怯まない。かつて地獄を見た最強の漢の意思を貫き通す力は、霊ごときでは止められないのだ。そう、この漢の気迫に満ちた稽古は、霊すらも圧倒してしまうものだった。
武に全てを捧げた漢と霊たちとの、武を通した交流。それが、さらなる奇跡を生む。やがて、霊のひとりが白い光に包まれた。光の中、その姿が徐々に薄くなり、やがて消えていく。
他の霊たちにも、同様の変化が起きる。彼らの体を、次々と白い光が包んでいく。
一箇所に密集し、入って来る人間に恨みの念がこもった視線を投げかけていた霊たち。ところが、最強の漢と言われた武術家との稽古が、そんな霊たちを次々と浄化させていったのだ──
やがて、霊たちはひとり残らず消え去った。同時に、黒崎も動きを止める。
「ひょっとして、霊はいなくなってしまったのか?」
そっと尋ねる。黒崎に霊は見えていない。しかし、空気を感じ取ることは出来る。
「はい、全ていなくなりました。あなたのおかげです」
「そ、そうなのか? 俺が退散させたのか?」
首を捻りながら、黒崎は尋ねた。すると、上野はとても元気よく返事をする。
「はい! また、お願いします!」
「そ、そうか。予定が合えば、な」
ウンウンと頷く黒崎だったが、ちょっと困っているようにも見えた。
翌日、連絡を受けた板屋が倉庫を訪れた。
「あ、あのう、除霊は完了したのですか?」
恐る恐る尋ねた彼に、上野は頷いた。
「ええ、完了しました。ただ、ひとつ気になることがあります」
「何でしょうか?」
「あそこです」
上野は、ある場所を指差した。昨日まで、霊が溜まっていた部分である。
「実はですね、あの一カ所にのみ霊がいたのですよ。それも、十体以上です。恐らく、あそこには何か埋まっていると思われます。掘り出しましょう」
上野の提案により、板屋は床板を外して下を覗きこむ。と、表情が変わった。
「あ、何かあったぞ」
言いながら、彼が手にしたのは……一冊の雑誌だった。表紙には、美しい欧米人女性が映っている。
「何ですかね、これは?」
上野も、後ろから覗き込んだ。その瞬間、板屋が叫んだ。
「こ、これは……NYヘヴンじゃないか!」
「NYヘヴン? 何ですかそれは?」
訝しげな表情の上野を、板屋はまじまじと見つめる。
「あなた知らないのか? NYヘヴンはな、我々の世代では有名な伝説のエロほ……いや、情報誌だ!」
「そ、そうですか。いや、初耳ですね。どんな情報誌で──」
「いや、大丈夫です上野先生! とにかく、これは私が預かりますので! 今回は、ありがとうございました!」