山樫明世の一日
山樫明世は、自転車を停める。
その表情は、ひどく歪んでいた。もう嫌だ、とでも言いたげな顔つきで、目の前で起きている騒動を眺めていた。
「おいおい、Mガイズとか名乗ってるアホ共が、こんなところで溜まってるぜ」
そんなことを言っているのは、リーゼントの髪型に特攻服を着ている少年だ。背は高く、百九十センチはあるだろう。体格もがっちりしていて、気の強そうな顔立ちだ。特攻服の背中には竹の子の絵が刺繍されている。
この男、名を竹尾和流太という。暴走族『武之虎賊』の総長であり、武闘派として知られている。彼の後ろにも、特攻服を着た少年たちがいた。その数は二十人近くおり、特攻服の背中には竹の子が刺繍されている。
幅三メートルほどの道路は、そんな少年たちで溢れんばかりの状態である。
「はあ? 俺たち、君らに迷惑かけてないじゃん。つーか、君らと俺たち、アホなのはどっちかなあ」
とぼけた口調で答えたのは、金色に染めた髪をマッシュルームカットにしている少年だ。白いタンクトップ姿で、腕や肩周りはしなやかな筋肉に覆われている。
こちらの少年は木下洋介という名だが、仲間うちからはキノッピーと呼ばれている。Mガイズという集団のリーダー格でもある。ちなみに、Mはマゾではなくマッシュルームのことだそうだ。
彼の周りには、やはり二十人ほどの少年少女がいた。こちらは、服装に統一性がない。キャラもばらばらである。
彼らはそれまでは、地べたに座り込んでいた。菓子の『キノコの森』を食べつつ、仲間うちで談笑していたのだ。しかし、武之虎賊たちが現れるなり、敵意を剥き出しにした表情を浮かべていた。
「はあ? アホなのはお前らに決まってんだろ。ガイズとか名乗ってっけどよう、女もいるじゃねえか。ガイって、男のことだろうが」
そう言って、竹尾は笑った。後ろの子分たちも、同調するように笑い出す。
このふたつのグループは、ただいま抗争中なのだ。もともとは末端のメンバー同士による「キノコの森は最高の菓子だぜ」「バカタレ! 最強の菓子はタケノコの村だ!」という些細な言い合いから始まったものである。今では、両グループによる小競り合いが日常となっているのだ。
嘲笑う武之虎賊の面々を見て、キノッピーはかぶりを振った。やれやれ、とでも言いたげな表情で口を開く。
「あのね、ガイズってのは人々って意味も含んでるの。今どき、小学生でも知ってるよん。君ら、まずは幼稚園からやり直して来た方がいいんじゃん」
言いながら、体をくねくねさせた。さらに、Mガイズの少年少女たちがゲラゲラ笑い出す。
途端に、竹尾の顔が怒りで歪んだ。
「この野郎……上等だぁ! お前ら、今すぐ潰してやる!」
怒鳴った直後、キノッピーに殴りかかる。後ろに控えていた手下たちも、手近な少年たちに襲いかかる。しかし、Mガイズの面々も負けていない。すぐさま反撃していく。
キノコVSタケノコの大戦争が始まってしまった──
そんな光景を、山樫は唖然となりながら見ている。普段なら、彼女は見なかったことにして通り過ぎていただろう。
だが、今回はそうもいかない。彼らが乱闘を繰り広げている道の先に、荷物を配達しなければならないのだ。そう、山樫は配達員なのである。
この道を迂回するとなると、大きく時間をロスしてしまう。となれば、強行突破するしかない。
山樫は、ふうと息を吸い込んだ。直後、パッと塀に向かい飛び上がる──
二メートルはあるであろう高い塀の縁につかまり、あっという間に塀の上に飛び乗った。そのまま、すたすたと歩いていく。すぐ横ではキノコとタケノコの戦争が続いているが、山樫は無視して進んでいった。
どうにか乱闘現場を通り過ぎると、彼女はさっと飛び降りた。早足で歩き、アパートの前で立ち止まる。二階建てであり、かなり古い造りだ。
一階にある角部屋の前で立ち止まり、戸をどんどんと叩き声をあげた。
「すみません! お届け物ですよ!」
「おお、明世ちゃんか。いいから、中に入っといで」
中から声が聞こえてきた。山樫は溜息を吐くと、戸を開け中に入っていく。
畳の部屋は六畳ほどの広さで、小柄な老人が座っていた。部屋にはちゃぶ台とテレビが置かれていて、老人はきなこ餅を食べながら通販番組を観ている。
「山田さん! お届け物ですよ! サインお願いします!」
山樫が怒鳴ると、山田と呼ばれた老人は立ち上がった。ペンを手にして、伝票にサインする。
「なあ明世ちゃん、きなこ餅でも食っていかんか?」
とぼけた口調で聞いてくる山田だったが、山樫はかぶりを振った。
「忙しいので失礼します!」
言うと同時に、すぐさま部屋を出る。
キノコVSタケノコの闘いは、さらに激しさを増していた。しかし、山樫はこんなものに構っていられない。すぐさま塀に飛びつき、よじ登る。身軽な動きで塀の上を進んでいき、激戦地を通り抜けた。
さっと飛び降り、自転車に乗り込む。さっさとその場を離れた。
「お前ら! 何しに来たんじゃ!」
「ガサ入れだよ! いいから、そこどけ!」
怒鳴り合うゴツい男たちを遠目に見ながら、山樫はポリポリと頭を掻いていた。
ここは、メゾン刻々という名のマンションである。十三階建てで、ヤクザや半グレや外国人マフィアなどといった、裏社会の住人の関係している事務所がほとんどである。違法なバーや風俗店、違法カジノなども入っていた。なので、周辺の住民からは『ノワール・ハイツ』などと呼ばれているくらいだ。
当然ながら、中には危険人物も多い。しかも、週に五回はどこかの部屋に警察のガサ入れがある始末だ。今も、一階の部屋にガサ入れが入っているらしい。警官とヤクザが罵り合う声が聞こえている。
こうなると、入口からは入れない。山樫は、どうしたものかと考えた。
やがて一計を案じ、ベランダ側へと回る。直後、パッと飛び上がった──
僅かな突起に指をかけ、山樫は壁にへばり付いた。その体勢から手を伸ばし、排水パイプを掴む。さらに足先を、小さなでっぱりに引っ掛ける。
荷の入ったリュックを背負った状態で、突起やデコボコに指先や足先を引っ掛け全体重を支えつつ、山樫は上の階を目指す。ヤモリのごとき姿で壁を進んでいった。
ボルダリングの世界チャンピオンですら困難な体勢で、壁をすいすい登っていく。その姿は、もはやCGにしか見えない──
やがて、目指す場所へと辿り着いた。ベランダの塀を越え、音もなく降り立った。
申し訳なさそうに、ガラス戸をとんとんと叩く。
ややあって、ガラス戸を開けたのは外国人男性であった。身長は二メートル近くあり、体重も百キロを軽く超えているだろう。分厚い筋肉に覆われた体にタンクトップを着ており、下は短パンだ。髪の毛は肩まで伸びており、ワイルドな雰囲気を一層際立たせていた。
そんな大男は、山樫を見るなり目を丸くした。
「お前、どうやって来た?」
訛りのある日本語で聞いてきた。山樫は、すまなさそうに頭を下げる。
「石野さんに、荷物をお届けに来ました」
ペコペコ頭を下げながら、山鹿は小さなダンボール箱を指し示す。大男は呆気に取られながらも、さらに尋ねた。
「お前、壁をよじ登って来たか?」
「はい。それしかなかったんですよ。警官とヤク、いや任侠の人が揉めてまして……」
その答えに聞き、大男は室内の方を向いた。
「ボス、荷物です」
その言葉に反応し、奥から現れたのは小柄な男だ。ジャージ姿で、大男に比べるとかなり細い。年齢は二十代から三十代前半だろうか。裏の世界の住人には見えなかった。
しかし、甘く見てはいけない。この男はロベス・ピエール・石野という日系人で、アメリカではマフィアの一員として活動していたのだ。しかし、暴れん坊ぶりが災いし日本に飛ばされてしまったのである。
そんな石野だが、ベランダにいる山樫を見て唖然となっていた。しかし、山樫は構わず荷物を差し出す。
「すみません。サインお願いします」
「いや、サインはいいけどよ、ここまで壁よじ登って来たのか?」
流暢な日本語である。
「下の階で、ガサ入れしてまして……入口からは入れなかったんですよ。仕方ないので、こっちから来ました」
「マジかよ、ここ十階だぜ……」
石野は、呆れつつもサインした。一方、山樫はぺこりと頭を下げる。
「で、では、次の配達がありますので」
挨拶し、再びベランダへと向かう。その背中に、大男が声をかけた。
「ちょっとプロテインプリンでも食っていかないか?」
「すみません、今は忙しいんですよう」
そう言うと、山樫は壁を降りていく。ちょっとした出っ張りやデコボコに指を引っかけつつ、すいすいと降りていった。自転車に飛び乗り、猛スピードで漕いでいく。
三時間後、山樫はとある木造アパートの前に立っていた。建物の造りは古く、塀には大量の苔が付いていた。また、庭には得体の知れぬ植物が大量に生えている。漂う空気は重く、周囲とは明らかに違っている。
山樫は、ハァと溜息を吐いた。敷地内に入っていく。と、凄まじい霊気を感じた。両肩および背中に強烈な重圧を感じ、その場に倒れそうになる。
だが、山樫はどうにか進んでいく。やがて、ひとつの部屋の前で立ち止まった。ドア越しに、何やら陽気な歌声が聞こえてくる。
山樫は、ドアをノックした。ややあって、ひとりの男が顔を出す。除霊師・上野信次だ。笑みを浮かべつつ荷物を受け取る。
「さすが、時間には正確だな。お前のそういうところは評価できる」
「何なんスか、その上から目線は。だいたいね、上野さんは──」
言いかけた山樫だったが、すぐに口を閉じる。
上野の後ろに、何かがいるのだ。彼女は霊が見える体質ではないが、感じることは出来る。今、言葉に出来ないくらいおぞましい感覚が走ったのだ。さながら、数百万ボルトの電流が全身を駆け巡ったような感覚であった。
ここにほ、想像もつかないくらい恐ろしい存在がいる。上野は、そんなものと戦っているのだ──
「で、では失礼します!」
山樫は頭を下げると、慌てて帰っていった。
「フン、相変わらず失礼な女だな」
呟く上野の後ろには、全身に槍と刀と矢が突き刺さった落ち武者が立っていた……。
数時間後、山樫はコンビニのイートインスペースにいた。椅子に座り、額をテーブルにくっつけている。
「今日も大変だったみたいだね」
顔見知りの店員である入来宗太郎がそっと声をかけると、山樫は額をつけた状態で右手を上げた。
「本当に大変だったよ。上野さん、なんであんなところで平気な顔していられるのかな。あの人自体が化け物だよ」
うつぶせ体勢でぼやく山樫を見ながら、入来はそっと呟いた。
「いや、君もそれに近いレベルだから……」