東極物語(2)
翌日、昼過ぎに目を覚ました上野。上体を起こすと、周囲を見回す。
部屋の隅には犬がいた。尻を床に着け、片方しかない前足を床に着けた体勢である。昨日と違い、その目に憎しみはない。むしろ、好奇心の方が強く感じられる。この人間は、何をしているのだろう……そんな顔つきで、上野を見ている。
そんな犬を尻目に、上野は土下座し大地への感謝の念を伝える。
やがて立ち上がると、日課のラジオ体操を始めた。長身の中年男が一心不乱に体操に励む様を、犬はじっと見つめている。時おり首を傾げながらも、目を離すことはなかった。
ラジオ体操を終えると、洗面所に向かう。そこで顔を洗い、歯を磨いた。そんな上野の姿も、犬は見ている。律儀にも、洗面所の近くまで付いてきている。
上野はというと、犬を完全に無視している。全てを終えると、すたすたリビングへと歩いていき、昨日のうちに買っておいた焼きそばパンとおにぎりを食べ始める。元気よくもりもり食べた後、なぜか掃除を始めた。部屋の隅から隅まで、念入りにやっている。犬もまた、彼の後を付いていった。
やがて掃除を終えると、今度は体操を始めた。太極拳のごとき動きで、ゆっくりと室内を動いている。見た感じは遊んでいるようだが、表情は真剣そのものだ。額には、汗が滲んでいる。
一時間ほど経った頃だろうか。突然、上野の動きが止まる。すたすた歩いていき、テレビのスイッチを入れた。
放送されているのは、またしても海外ドラマである。昨日に放送されていた『ダースフランの犬』の続きのようだ。
画面では、逞しく成長したロネが映っている。筋肉の盛り上がった上半身には何も着ておらず、頭には鉢巻きをした姿で暴れていた。手には弓を持ち、凄まじい形相で火のついた矢を射ているのだ。村は、既に炎に包まれている。地面に倒れている人間もいた。
さらにロネは、燃え上がる教会へと入っていく。ベンスルーの絵を燃やし、屋根の上に登った。
「神よ! お前が本当に存在するなら、奇跡を見せてみろ! この火を消してみろ!」
そんなセリフを、天に向かい吐く。と、次の瞬間に銃声が轟く──
警官隊による大量の銃弾に貫かれ、ロネはバタリと倒れた。上野はというと、涙を拭きながら画面を観ている。さらに、そんな上野を犬が見つめている。
直後、場面が切り替わった。冥界を、とぼとぼ歩いていくロネ……だが、声が聞こえてきたのだ。
「やっと来たな、相棒」
ロネはハッとなり、声のした方を向く。
そこにいたのは、ラッシュパトだった。生前のように、前足を揃え地面に腰を降ろした姿勢でロネを見ている。
「ラッシュパト……何でここに?」
呆然となりながら、ロネは尋ねる。すると、ラッシュパトはのんびりと歩いてきた。その口からは、人間の言葉が出ている。
「神さまに天国いっていいって言われたけど、お前のいない天国なんかつまらないだろ。だから、地獄いきに変えてもらったんだよ。地獄でもよろしくな、相棒」
そう言うと、ラッシュパトはロネの顔をぺろりと舐める。その瞬間、ロネは彼を抱きしめていた──
「ラッシュパト……もう離さない! 僕たちは、ずっとすっと一緒だ!」
そして、また場面が切り替わる。
血の池地獄で、笑いながら背泳ぎをしているロネ。彼の後を、ラッシュパトが犬かきをしながら付いていく。ふたりとも、とても楽しそうだ。
そんなふたりを、金棒を担いだ赤鬼と青鬼がにこやかな表情で見ている。舞台はヨーロッパのはずだが、なぜか和風の地獄に送られたらしい。
異様な風景の中、ナレーションが流れる。
(ロネは、地獄に堕ちました。でも、何も怖くありません。彼のそばには、親友のラッシュパトがいるからです。ふたりは地獄で、いつまでも楽しく暮らすことでしょう)
直後、いつもとは違うエンディングが流れ出した──
「ううう、なんて感動的な最終回なんだ。いつまでも忘れないぞ。俺は今、猛烈に感動している……」
上野は、座り込んで号泣していた。その姿を、犬は首を傾げつつ眺めている。
やがて上野は、立ち上がり隣の部屋に行った。リュックを開けて、中から奇怪なものを取り出す。金属のバネが大量に付いたコルセットのようなものだ。手首や足首、膝や肘などで留める構造になっており、身につけるとバネが全身を覆うようになっている。
そのバネ服(?)を、上野は自身の体に装着した。鏡に映し、様々なポーズをとる。いったい何の効果があるかは不明だが、動きにくそうなのは間違いない。
「さすがドリームボール養成ギプスだ。なかなかいい感じだぞ。ロネ、俺も負けないからな!」
そんなことを言いながら、ボディビルダーのようにポーズをとる。当然ながら、犬もその姿をじっと見ていた。
しばらくすると、上野はギプスの上からトレーニングウェアを着こんだ。ギチギチという音を立てながら歩き、玄関にて振り返る。
犬は、離れた位置でこちらを見ている。外に出る気はないらしい。
「まだ、外には出られんのか。哀れな奴だ」
ボソッと呟くと、上野は走り出す──
道ですれ違った人は、誰もが思わず振り返っていた。それくらい異様な光景である。長身で彫りの深い顔の中年男が、全身からガチャガチャと金属音を鳴らしながら走っている……いったい何者だろうかと二度見してしまうのだ。
一方、犬は寂しそうな顔をしていた。
一時間ほど走り、上野は部屋に戻って来た。ゆっくりとしたペースではあったが、汗だくで息も絶え絶えだ。ドリームボール養成ギプスを装着していては無理もない。
ギプスを外し、シャワーで汗を流した。その後、買っておいた恵方巻きを食べる。なぜか、ナイフとフォークを使い丁寧に切り分けて食べているのだ。犬は、離れた位置から上野の食事を眺めていた。
やがて食べ終えた上野は、床に寝転がる。直後、いびきが聞こえてきた。そう。彼は寝てしまったのである。
犬は、首を傾げつつも上野の奇行をじっと見守っていた。
陽が沈み月が出てきた頃、上野はムックリと起きた。立ち上がると、またしても荷物をあさりだす。
取り出したのは、緑色のゴムボールだ。何を思ったか、壁に向かいポーンと投げる。
それを見た途端、犬の様子が変わった。床に着けていた尻を浮かせ、じっとボールの動きを見守る。
上野はというと、ボールを壁に投げては取りに行っている。室内でやることではないだろうが、本人は真剣そのものの表情でボールを投げている。
と、その顔が犬の方を向いた。
「そら、いくぞ!」
叫ぶと同時に、ボールを投げる。と、犬はぱっと走りだした。三本の足で器用に走り、すぐさまボールを口にくわえた。直後、こちらへと走ってくる。
上野は、ニヤリと微笑んだ。
「ほう、やるな。では、もう一回!」
直後、またボールを投げる。犬もまた、すぐさま反応した。今度は、空中の時点でキャッチする。
「大したものだな。どうやら、ここでは狭すぎるらしい。では、外に行こうではないか」
そう言うと、上野は立ち上がった。玄関に向かい歩き出す。
ドアを開けると、立ち止まり振り返った。犬は、複雑な表情でこちらを見ている。動く気配はない。
上野は手招きした。
「どうした? こんな狭い家の中にこもっていないで、外で遊ぼう」
声をかけたが、犬は動かない。ためらっているような表情で、前足を小刻みに動かしている。行きたい気持ちはあるらしい。
上野は微笑み、大きな動作で手招きする。
「何をやっている。さあ、来い!」
その途端、犬は駆け出した──
もし、それを見た者がいたとしたら……十人中九人が見なかったふりをして足早に通り過ぎていっただろう。ただし、「見える」ごく一部の人間は、ギョッとした顔で凝視していたかもしれない。
マンション近くにある公園。その中央広場にて、上野は笑いながら駆けていた。時おり「よーしよしよし」「かわいいなあ、お前は」などという声が聞こえてくる。
夜九時を過ぎた公園にて、身長百八十センチオーバーで濃い顔の中年男が、ひとりで笑いながら走り回っている……どう見ても異様だ。ある意味、たむろしているヤンキーより怖いかもしれない。
しかも、特定の人間にはさらに恐ろしい風景が見えていたはずだ。上野の傍には、大きな犬がいる。黒い毛並みで、顔の半分が砕けており目は片方しかない。前足は、片方がちぎれていた。腹には大きな裂け目があり、内蔵や骨が見えている。
そんな不気味な犬が、公園ではしゃぎながら飛び回っていた。外で人間と遊ぶ喜びを、全身で味わっていたのだ。
対する上野はというと、犬と一緒に走っていた。満面の笑みを浮かべ、広場の中をぐるぐる駆け回っている。普段の仏頂面が嘘のようだ。
だが、不意に犬の動きが止まった。合わせて、上野も止まる。
犬は、何か言いたげな様子で上野を見上げた。ひとつしかない瞳には、溢れんばかりの親愛の情がある。
上野もまた、無言で犬を見つめる。その顔には、優しい表情が浮かんでいた。
ややあって、犬は上野に向かい、ワウ、と鳴いた。直後、向きを変えゆっくりと歩き出す。その姿は、徐々に薄れていき……やがて、完全に消えてしまった。
上野は、その場に立ったまま犬のいた場所を見つめる。
「楽しかったぞ。生まれ変わったら、また会いに来い。いつでも遊んでやる」
そう言うと、向きを変え戻っていった。
翌日、ラジャ姐さんが部屋を訪問する。
「ねえ、本当に大丈夫? もういないの?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、確かめさせてもらっていい?」
「いっこうに構いません。しかし、どうやって確かめるんです?」
「アタシと一緒に、ここでもう一週間、一緒に寝泊まりするの」
言った直後、体を寄せてくるラジャ。だが、上野はすっと躱した。
「それは無理です。では、失礼します」
冷たい表情で言い放ち、背を向ける。と、その背中に強烈な張り手を喰らう。
「冗談よぉ! 冗談だってば!」
ラジャの声。しかし、上野は答えることが出来なかった。張り手の衝撃が強すぎ、思わずむせる。常人ならば、この一撃でノックアウトされていたかもしれない。
そんな上野の耳元で、ラジャは囁いた。
「とにかく、今回はありがとね。今度、店にいらして。たっぷりサービスしちゃうから」