でも、第一の除霊(1)
「あ、あの……どうなのでしょうか?」
尋ねる女だったが、問われた男は答えない。面倒くさそうな表情で、周囲を見回している。
少しの間を置き、女は再び尋ねた。
「すみません、どうなのでしょうか?」
途端に、男は女を睨みつける。
「あのね、僕は今それを調べているんですよ。ちょっと静かにしてもらえませんか?」
「す、すみません!」
そんな会話を交わすふたりがいるのは、とあるマンションの一室である。両者の距離は、非常に近い。密着と言っても差し支えないだろう。
大人の男女が、ひとつ屋根の下で体を密着させている……一歩間違えれば、不倫中かと勘違いされるかもしれない状況だ。もっとも、ふたりの間に色っぽい雰囲気は皆無である。むしろ色気とは真逆の、緊迫感に満ちた空気が漂っていた。
今の時刻は午後三時だ。下校途中の小学生の騒がしい声が外から聞こえてくるような時間帯である。にもかかわらず、この部屋だけは妙な静けさに包まれていた。家具らしきものは何ひとつ見当たらず、人間が生活している雰囲気は感じられない。
「なるほど。よくわかりました」
一通り室内を見回した後、男が呟くように言った。
ここは、都内に建てられたマンションである。駅から徒歩五分、周囲は閑静な住宅地だ。1LDKの部屋は日当たりが良く、見晴らしもいい。
にもかかわらず、この部屋だけは借り手がついていなかった。
理由はというと、怪現象が起きるからである。
「やはり、いるのでしょうか?」
隣にいる女が、恐る恐る尋ねる。その途端、男はじろりと睨んだ。
「近いです。離れてください」
「あっ!? す、すみません!」
女は、慌てて離れた。
彼女の名は沢崎奈津美。年齢は二十八歳、小柄な体格と可愛らしい顔立ちが特徴的だ。見た目だけなら、十代後半でも充分に通じるだろう。もっとも、そんな幼い見た目でありながら、近くで小さな喫茶店を開いていたりもする。このマンションのオーナーとは、旧知の仲だ。
「ここには、霊が住み着いています。間違いないですな」
男は、無愛想な態度で言った。見た感じの年齢は四十歳くらいか。恐らく、五十歳まではいかないだろう。身長は高く、百八十センチを優に超えている。手足も長くスラリとした体型で、ちょっと濃すぎるが顔立ちも悪くはない。昭和の映画に登場する俳優、といった風貌だ。もっとも、その鋭い眼差しからは、気難しい性格であろうことが窺える。霊などという非日常的な言葉を口にしてはいるが、着ているものはポロシャツにデニムパンツという極めて日常的な格好だ。
そんな男・上野信次は、ふうと溜息を吐く。先ほどから、面倒くさそうな顔つきを崩していない。沢崎は、不安そうな目を彼に向けている。
ややあって、上野はおもむろに口を開いた。
「いいでしょう。引き受けます」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。はっきり言って、こんな小さな仕事は受けたくないのですがね、入来くんが間に入っているとなると仕方ありません。今回に限り、お受けします」
「あ、ありがとうございます!」
「ただし、条件があります。僕のやることに、一切口を出さないこと。それと除霊中は、絶対に家の中を覗かないでください。カメラによる撮影も駄目です。この約束を破ったら、僕は降ります。いいですね?」
「はい!」
「あと、事前に僕の注文したものを全て用意しておいてください。でないと引き受けません」
「わ、わかりました」
「よろしい。まあ、一週間以内には何とかなるでしょう。どんと来い霊能現象、ですよ」
そういうと、上野は勝ち誇った表情で胸を張る。しかし沢崎の方は、大丈夫だろうか……とでもいいたげな、不安そうな様子だった。
次の日、その部屋には明かりがついていた。ベランダに通じるガラス戸や窓は閉めきった状態であり、カーテンも降りている。
そんな中、上野は床に座り込んでいた。何もない部屋の中で、分厚いステーキを食べている。布を敷いた床に皿を置き、あぐらをかいた姿勢でナイフを動かし肉を切っている。
その時、部屋の隅に何かが現れる──
異様な青年が、上野の前に立っていた。身長は百七十センチほどだろうか、痩せた体つきだ。肌は青白く、不健康そうである。
もっとも、顔の半分は砕けていた。腹からは、内臓らしきものがはみ出ている。したがって、不健康などというレベルではない。一応は服らしきものを着ているが、ボロボロで穴だらけだ。しかも、血液と思われる染みが大量に付着している。
普通の人間なら、確実に悲鳴をあげ逃げ出しているであろう状況だ。しかし、上野は表情ひとつ変えなかった。いきなり現れた青年に対し、一瞬手を止めてチラリと見たものの、すぐに食事を再開する。ナイフで肉を細かく切り、フォークで口へと運ぶ。ゆっくりと咀嚼し、肉を心ゆくまで味わう。
突然、その手が止まった。
「この味は……そう、初めて悪魔との会話に成功し仲魔にした時、あの感覚に似ている。幼い時の成功体験がもたらす純粋な喜びを思い出したよ。素晴らしい味だ」
ひとりで呟き、ウンウンと頷く。その様を、青年は無言のままじっと見つめていた。
やがてステーキを食べ終えると、キッチンにて汚れた皿を綺麗に洗った。
リビングに戻ると、持ってきたバックパックを開ける。中から、何かを取り出した。
それは、将棋盤と駒だった──
上野は、将棋盤の上に駒を手際よく並べていく。その姿を、青年は無言のままで見ていた。
駒は、すぐに並べられた。上野は、ぱちんと駒を動かす。
次に、反対側へと移動する。あぐらをかいて座り、先ほどと同じく駒を動かす。かと思いきや、またしても反対側に移動し駒を動かす。
そう、この男はひとり将棋をやっているのだ。ただし、表情は真剣そのものである。せわしなく動き、じっくりと盤面を見て駒を動かしていく。座る位置が変わる度、表情と見方も変化している。
上野は、ふたりの指し手に完璧に成りきっていたのだ──
そんな中年男の奇行を、青年は無言で見ているだけだった。
しばらくして、勝敗が決したらしい。上野は、誰もいない空間に向かい深々と頭を下げる。
「まいりました」
言った後、顔を上げ盤面を見る。
「うむ、指し手の実力は全く同じはずだ。にもかかわらず、こうして勝敗がはっきりわかれる。勝負というのは、実に怖いものだ」
ひとりでブツブツ言いながら、服を脱ぎ風呂に入る。
浴槽に浸かっている上野の目の前には、顔の半分が砕けた青年が立っている。何やら言いたげな様子で、じっと上野を見下ろしていた。だが、この男は完全に無視していた。天井を向いたかと思うと、いきなり片手を上げ叫ぶ。
「一番! 上野信次! 黒崎師範の物真似します!」
直後、浴槽をぴょんと飛び出す。全裸のまま、鏡の前に立った。脂肪の少ない筋肉質の肉体を鏡に映し、満足げに頷く。
だが、それは一瞬で終わった。
「正拳中段突き、用意! 構えい!」
突然、野太い声を出す。どうやら、何者かの物真似をしているらしい。当然ながら、青年も傍らにいる。全裸でひとり暴れている上野を、じっと見つめている。
にもかかわらず、上野の奇行は続く。今度は、鏡に向かい正拳突きを始めた。
「セイ! セイ! セイ! セイ!」
しかめ面を作り、重々しい声で気合いを発しながら正拳突きを放つ。その異様な光景を、青年はただただ見ていることしか出来なかった……。
しばらくして、上野は動きを止める。
「忘年会まで、あと半年を切ってしまった。今回は、これで行くとするか」
あるかないかもわからない忘年会に向けた一発芸の練習を終え、上野は満足げな表情で体を拭きバスルームを後にする。
青年もまた、後を付いて行った。
上野は、バックパックの中から寝袋を取り出した。耳栓をして、全裸のまま袋の中に入り込む。
数秒後、いびきをかき始めた。この男は、百の特技を持っている。そのひとつが、どこでも寝られることだ。
青年は、そんな上野の姿をじっと見下ろしていた。
翌日、朝の八時に目を覚ました。
寝袋から出ると、全裸で立ち上がり深呼吸をする。次いで正座し、額を地面につける。
「あらゆる生命の源である地球よ、今日も元気に活動できることを深く感謝する。ありがとう」
そんなことを言いながら、床に口づけした。
直後、すくっと立ち上がる。スマホをいじると、大音量のラジオ体操第一が流れる。上野は真面目くさった表情で気をつけの姿勢をとり、体操が始まるのを待っていた。
やがて、体操が始まる。上野も放送に合わせ、体を動かしていく。全裸のため、ぴょんぴょん飛び跳ねるたび、彼の大きな一物がビタンビタンと揺れる。上下に揺れたり、左右に揺れたりもする。だが、彼はお構いなしだ。全裸のまま、体操を終えてしまった。
そんな姿を、顔が砕けた青年はまばたきもせず見つめている……。
ラジオ体操を終えると、ようやくトランクスを履いた。その時、待っていたかのようにドアホンが鳴る。
「フッ、来たか。時間に正確だ。さすがだな」
呟くと同時に立ち上がり、玄関へと歩いていく。
ドアを開けると、そこにはTシャツとデニムパンツ姿の女が立っていた。小柄で髪は短く、とぼけた感じの顔立ちである。何となく地方のゆるキャラに似ている。もっとも、シャツの裾から伸びた二の腕は筋肉質だ。太くはないが、細かい筋肉に覆われている。鍛え抜かれた体の持ち主であることは、一目でわかるだろう。
「はい、荷物をお届けに来ました」
無愛想な態度で、女は包みを手渡す。上野は、口元を歪めて受けとった。
「なんだ、またお前か」
そう、上野は彼女を知っている。この娘は山樫明世、二十歳の配達員である。もっとも、ただの配達員ではない。特殊な案件のみを取り扱っている。その性質上、上野とはよく顔を合わせる。
「あのねえ、ここ有名な事故物件なんスよ。配達員みんなビビっちゃって、あたしが来るしかなかったんスよ」
厭味たらしく言ったが、上野には通じなかった。
「ふん、根性無しだな」
「その根性無しっての、やめましょうよ。今は昭和じゃないんスから。根性論なんて、いまどきクロマニョン人でも言わないっスよ。だいたい、女の子の前にパンツ一丁で出て来るなんて、デリカシーなさ過ぎっス。これね、一歩間違えるとセクハラ案件っスよ」
長身の上野に、臆することなくずけずけと言う山樫。さすがの上野も、思わず目を逸らした。
「全く、細かいことを……本当にうるさい女だな」
「今時、こんなん当たり前っスよ。んなこと言ってっから、上野さんは女の子にモテないし未だに独身なんスよ」
その瞬間、上野の目つきが変わった。
「あっ、言ったな。今の時代、それだってセクハラになりかねないんだぞ」
子供のような表情で反撃する上野に、山樫は呆れた様子でウンウンと頷いて見せた。
「はいはいわかりました。あたしの負けっスよ。次の配達あるんで失礼します」
言うと同時に、パッと向きを変え去っていく。その後ろ姿を、上野は忌ま忌ましげに睨んだ。
「いつもながら失礼な奴だ」
呟くように言った後、ドアを閉める。
室内で包みを開けると、中にはカレー弁当が入っていた。たちまち匂いが広がっていく。
「うむ、朝からカレーを食べるというのは、どこか背徳感を覚える行為だ」
訳のわからないことを言い、ひとりでウンウンと頷く。直後、カレーを食べ始めた。
カレーを食べ終えると、上野はようやく服を着る。白いTシャツにデニムのパンツといういでたちで、リュックを背負う。
外に出た上野の後ろ姿を、青年はじっと見つめていた。