8 右側
シエルが居館を出ると、夏だというのに涼しい風が吹き抜ける中庭に兵たちが整列していた。
日頃は黒い鎖帷子や鎧姿が多い彼らだが、今日は鮮やかな青色の軍服を着用している。
城門前と主塔の天辺には、鷹の横顔を象ったアルバイン領の青い領旗がはためいていた。
礼拝堂の入り口は開放されており、入り口前に兵たちと同じ青色の軍服に深紅のマントを羽織った人物がいる。
リュスだ。長い黒髪が風になびき、雄々しくも気高い立ち姿に、神話に出てくる軍神かと見紛う。
久々に見かけた姿は、以前と変わりがなさそうだ。忙しいと聞いていたシエルは、元気そうな姿にほっと息を吐いた。
シエル如きに心配されるのは不服だろう。
だが、連日クラウスに「リュス様は働き過ぎなのでいつ倒れるか心配なのです。もう少し他者も頼ることを覚えていただきたいものですが、如何せん甘えることがとーっても苦手なようでして。ここは是非、奥様となられるシエル様にはリュス様に甘え方を教えていただきたいものですが」と言われ続けていたせいで、密かにリュスの体調を案じていたのだ。
愛することはない、夫婦の営みもするつもりはないと言われている相手を、どうやって甘やかせばいいのか。難題を突きつけられ、シエルは日々頭を悩ませていた。
「――支度できたか。始めよう」
シエルがリュスの元に到着すると、リュスは表情を一切変えないまま告げる。リュスの言葉を聞いたクラウスは、片手で目を覆った。
「あの、クラウス様、大丈夫ですか……?」
クラウスのことをレドル様と呼んでいたら、やがて本人に注意を受けた。仕方なくシエルが己を許せる名前呼び、つまり名前に様を付けたところ、引き攣った顔で「……結婚したら様は取って下さいね」と言われてしまう。
アルバイン領主夫人となった後は、周りへの示しがつかないからだろう。
口をひん曲げたクラウスが、リュスの肩をトントンと叩き注意を引く。礼拝堂に向き直っていたリュスが振り返ると、クラウスが小声で言った。
「あのね、なんかひと言ないんですか。花嫁姿ですよ」
リュスの紫色の目が見開かれた。何故か驚いた顔のまま、ゆっくりとシエルを上から下まで眺め始める。居心地の悪さに、シエルはヴェールの下で目線を足許に落とした。
(ど、どうしよう……代々伝わる衣装を、勧められるがままに着てしまっては拙かったかしら)
ヴェールで顔は隠されているから、不快さは減るのではと期待した自分が恥ずかしかった。そもそも違約金のおまけで押し付けられたシエルがこの衣装を身に纏うこと自体が、きっと間違っていたのだ。
「あ、あの、リュス様、私……」
鏡を見てがっかりするのがどうしても嫌だったけど、一生に一度の晴れ姿だからとエリザに懇願され、ヴェール越しに久々に自分の姿を見た。
醜い顔は殆ど見えず、貧相な身体に豪華な花嫁衣装が、お前はアルバインには不釣り合いなのだと言われているようだったが。
エリザが「綺麗です……!」と涙ぐんでいたので、エリザを否定するような言葉は口にできなかった。
ずっと無言だったリュスが、ゆっくりと口を開く。
「その……綺麗だな」
リュスの目線が落ち着いていないのを見て、気を遣わせてしまったと気付いた。申し訳なさに、身体が火照る。
「え、あ、あの……。お気遣い、ありがとうございます……」
何故かクラウスは、また手で目を覆ってしまった。
リュスが左の眉を上げる。
「俺は世辞などは……」
「あーっと! ではそろそろ中に入りましょうか!」
クラウスが、リュスの言葉を突然遮った。
シエルはクラウスの言葉を聞き、礼拝堂へは新郎新婦が腕を組んで入場することを思い出す。
結婚を題材にした本も何冊か読んだことがあるが、挿絵は確か新郎が右側にいた記憶がある。
シエルが急いでリュスの右側に駆け寄ると、クラウスが「あ」と声を漏らし、リュスが顔を顰めた。
「シエル様、新婦は新郎の左側です!」
「えっあ、す、すみません……っ」
(しまった……! そうよ、挿絵は後ろ姿だったのに、私ってばまた失敗を……!)
冷や汗がどっと出てしまい、シエルは固まってしまう。すると静かに長い息を吐いたリュスが、左腕を差し出しながら抑揚のない声で告げた。
「こっちの腕だ。今後も俺の右側には立たないでくれ」
「リュス様!」
クラウスが責めるような声色で声をかけたが、リュスの表情は変わらない。
「は、はい……」
いけないと思うのに、涙が滲んできた。
(右目が見えないから……私が信用できないから、なんだわ)
当然のことだ。おまけで付いてきた醜いシエルを信頼する要素など、何ひとつないのだから。
エリザに「さ、シエル様!」と急かされ、シエルは慌ててリュスの左腕に指先を乗せる。初めて触れるリュスの腕は固く、シエルは硬さが彼の拒絶を表している気になった。
温度を感じさせない切れ長の紫眼が、シエルを斜めに見下ろす。
「行こうか」
「は、はい!」
リュスに引っ張られるようにして礼拝堂の中に入った。二十名ほどの参列者たちが、二人を振り返る。殆どが軍服を着用していることから、アルバイン軍の者たちなのだと推測した。貴族の服を着ている者が数名いるのは、親類だろう。
リュスの両親は既におらず、兄弟もいない。血縁者はいるが、血の近い者しか今回は招かなかったそうだ。
理由は、シエル側の出席者が誰もいないからだった。
忙しいリュスに代わり、クラウスが魔鏡を介してブランデンブルグ家に出欠の有無を確認した。すると先程エルザも言っていた通り、アリエスの妊娠を理由に断ってきたのだ。
ブランデンブルグ家は子爵でアルバインよりは格下だが、事業に成功し潤沢な資金を保有している。アリエスの新たな婚約者となったニールは侯爵家の跡継ぎでもあることから、権力はブランデンブルグがやや上だが、軍事力はアルバインの方が遥かに勝る。
だが、まさか迎え入れた嫁の家を武力で威圧する訳にはいかないだろう。結局クラウスは、ブランデンブルグの薄情さに呆れ返りながらも、その場で欠席を受諾したという。
怒りが収まらなかったクラウスは、怒り心頭といった様子で「あんな失礼な人たちは来なくて正解ですよ!」とエリザとシエルの前で憤っていた。どうも、シエルには言えないような言葉も言われたようだが、詳細については「知る必要ありません!」と教えてもらえなかった。
シエルが忌み嫌われているせいで、クラウスに嫌な思いをさせてしまったのだ。申し訳ないと謝ると、クラウスはエリザに睨まれてしまい頭を掻いて居心地悪そうにしていた。
クラウスもエリザも、シエルが人を不快にさせる醜さの持ち主でも、味方だと思ってくれている。いい人たちなのだ、とシエルはアルバインの地にシエルを送り出してくれたブランデンブルグの皆に感謝した。
なお、クラウスの話によると、ブランデンブルグ側が全員欠席という報告を受けたリュスはひと言「分かった」と答えると、さっさと魔鏡を布に包み厳重な箱に入れた上、ブランデンブルグに返却させたらしい。「スカッとしましたよ!」と誇らしげに語るクラウスを見て、返却されたことで叔父が憤慨しなければいいが、と心配になった。
とにかく、そういうことで参列者は少ない。
今はヴェールをしているのでそこまで恐怖を感じないが、誓いの口づけはどうしてもしないといけないものらしい。口づけの際、ヴェールを上げる必要がある。すると、シエルの醜い顔が見られてしまう。
城の人間はきっとある程度見慣れてきただろうからいいが、親類は初対面だ。アルバイン領主の新妻が世にも醜い忌まれる存在だと知ったら、どう思われるのか。
(私は不快な目で見られてもいい。慣れているから。でも、リュス様まで同じ目で見られてしまったら……)
考えれば考えるほど、婚姻の儀はすべきではなかったのでは、と今更どうしようもないことを考えてしまう。
たらりと嫌な汗が背中を伝い、自分が緊張と不安でガチガチになっていることを知った。