5 エリザ
両親が生きていた頃は、シエルにも侍女がいた。母とシエルの面倒を見てくれた優しい女性で、自身も母親だということでシエルのことも沢山可愛がってくれた。
だから、貴族令嬢が湯浴みの際侍女の手を借りることは知っている。服を着るのだって、侍女に着せてもらう。アリエスも叔母もそうしていた筈だったが、シエルを担当してくれた使用人は、途中から「気味が悪い」と言って手を貸してくれなくなった。
最初は戸惑ったが、平民も使用人たちだって皆自分のことは自分でやっていると聞き、これまでの自分が甘やかされていただけだと知った。
ちなみに使用人は、風呂に湯を張る方法は教えてくれなかった。そんなものは贅沢だと言われて調べたら、風呂に浸かるのは貴族や裕福な商人くらいだとも知る。
シエルは忌むべき存在だ。死に損なったのに衣食住を提供してくれている叔父一家に迷惑は掛けられない。シエルは調理場の片隅を借り湯を沸かし、部屋に持ち運び桶一杯のお湯で身体を清めることを覚えた。
どうしても痒くなる時は、人がいない時間に部屋をこっそり抜け出して井戸に行き、水を被った。
飲水は基本自分で井戸に汲みに行っていたから、シエルは細い割には腕力はあった。
そんなシエルだったので、温かい湯が張られた風呂に連れて行かれ、唖然としている間に素っ裸に剥かれ、風呂に浸かったまま泡だらけにされてしまい、大いに戸惑った。
「まあ、こんなに細いなんて! 羨ましいを通り越して心配になりますわ!」
「え、あの、すみません……」
「これではご懐妊された途端栄養を取られて倒れてしまいますよ! 今日からどんどん食べていきましょうね、シエル様!」
「ご懐妊……」
侍女のエリザに言われて初めて、もしこのまま追い出されなかったらその可能性もあることに思い至る。
「子供は……母親に似るものなんでしょうか?」
「えっ? まあ、よく似る子もいれば父親似もいるでしょうけど」
「それは困ります……」
「えっ? 困る? どういうことです?」
泡を流してもらい、ふかふかのタオルで身体を拭かれた後は、全身を香油で潤された。全てが贅沢すぎて、シエルは目がくらみそうになっている。
「その、だって、私に似たら子供が可哀想でしょう……?」
「……はい?」
素っ頓狂な声を出したエリザが、固まった。何かおかしなことを言っただろうか。
互いにしばし目をぱちくりとしながら見つめ合う。そういえば、エリザもシエルを見て嫌な顔をしない。さすが厳しいと有名なアルバイン伯爵の使用人だ、とシエルは感心した。
「……まさかシエル様、ご自分のお姿をご存じないのです?」
エリザの問いの意味が分からず、シエルは首を傾げる。話す間もエリザの手は止まらず、シエルの肩にふかふかの生地でできた前合わせの部屋着を掛けてくれた。どうやらこれで水分を吸い取るらしい。
「私の姿は、分かってます……虹彩異色は気味悪いですよね。醜くてとても人様にお見せできる顔の造作ではありませんが……」
エリザが、口を大きく開けて言った。
「――は?」
◇
浴室から部屋に戻ると、肩を押されるようにして寝台に座らされる。
「シエル様のお部屋に鏡はなかったのですか?」
「鏡? 部屋にはありましたけど、上から布を掛けていましたがそれが何か……?」
鏡を覗いても、シエルを見返してくるのは、右目の金色と左目の銀色が逆になった見るに堪えない瞳だ。痣で紫色になった肌は醜く、アリエスのような艶やかさの欠片もない乾ききった表情を見る度に苦しくなって、鏡から目を背けた。
しばらくして、そもそも見なければいいということに気付いてからは、自室にいても気落ちすることが減った。女であれば、美しくありたいというのは至極当然のことだろう。だけど美が与えられなかったシエルにできることは、目を逸らすことだけだったから。
「信じられない……」
エルザの呟きが聞こえてしまい、シエルは身体を縮こまらせた。途端、エリザが慌てて手をブンブン身体の前で振る。
「違います! シエル様のことを言ってるんじゃないですから!」
だったら何のことを言っているのか。シエルにはさっぱり分からず、エリザがいつの間にか運び込まれていた持参した衣装箱を漁る姿をただ眺めた。
「急なご来訪だったもので、大きさも分からず揃えておくことが出来なかったんですよねえ。だからこの後の晩餐は、お持ちになった服でめかし込みましょうね!」
めかし込む。言葉の意味は分かったが、実際になにをするのかはさっぱり分からない。これは完全に未経験のものだ。
「うちのリュス様、わざわざ魔鏡を使って話をした癖にそういったことは気が利かないっていうか」
「あの……?」
ブツブツと、これはどうやらリュスの愚痴を言っているのだろうか。アルバインでは、不敬だと叩かれたり罰せられたりしないのか。
シエルの不安そうな眼差しをどう受け取ったのか、エリザは淡い水色の衣装を持ってくると、笑顔で大きく頷いてみせた。
「さあ、腕の見せ所ですね!」
勇ましく腕まくりをしたエリザを見て、シエルは思わずごくりと唾を嚥下した。
◇
「な……なんでですか……っ?」
エリザの目が、驚愕で見開かれている。シエルは申し訳なく思いながら、もっと早く伝えるべきだったと後悔していた。
「申し訳ありません……これらは全て直す前の物でして……」
「は? 直す?」
エリザの口まで大きく開いてしまったので、卑怯だとは思いつつ、シエルは慌てて言い訳を始める。
「さ、さぼっていた訳ではないのです! こちらは叔母が出発直前に用意してくれた物ばかりで、馬車の中では針と糸もなく……っ」
「針と糸……?」
どうも先程から、エリザはオウム返しするばかりだ。何がそんなに驚くべきことなのかが分からず、シエルは必死で説明をした。
「ええ、従姉妹の服は私には大きいので、いつもはいただいた後に詰めたりしてい……」
「はああああっ⁉ 従姉妹の服⁉ いただいた⁉」
急に大声を出され、シエルは拙いと思うのにビクッと反応してしまう。するとエリザは、慌てた様子で服が下がって剥き出しになった肩を掴んだ。――手が、温かい。
「あっ! 違うのです! シエル様に言った訳ではなく……ああ、もう、なんてこと!」
エリザは髪を振り乱して苛立ちを露わにしている。自分ではないなら、一体何にそんなに憤慨しているのか。
「……なるほどなるほど。このエリザ、何となく掴めてきましたよ」
「え、な、なにを?」
エリザは目を細めた。
「今日は仕方ありませんから、これを何とかしましょう」
「あの、す、すぐに縫いますから……っ」
シエルが服を脱ごうとすると、エリザは眉を垂らしながら微笑む。
「では、一緒に縫いましょうか」
「え……っいいんですか?」
思わず笑ってしまい、慌てて笑みを引っ込めた。そんなシエルを見ていたエリザが、ボソリと独りごちる。
「見てなさいよ……」
気迫の籠もった笑顔の横顔に、シエルは思わず息を止めた。
◇
エリザの裁縫の腕は凄くて、シエルの倍以上の速度で水色の衣装を直していった。
「――さ、着てみましょうか!」
清々しい笑顔で言われ、結局は殆ど役に立てなかった自分を恥じながら、シエルは衣装を着る。
「ん、ぴったりですね!」
「エリザ様、凄いです……!」
「様……」
何故かエリザが遠い目をした。
「その『様』と敬語はやめましょうか、シエル様」
「えっ? でも、家の為に働く使用人に生意気な口を利くことは駄目だと叔父様が」
「じゃあ百歩譲って敬語はいいです。とにかくその『様』はやめてください。はい、エリザ。言って下さい」
ブランデンブルグでは、使用人にも『様』を付けていた。叔父一家は呼び捨てしていたが、シエルは居候で忌み嫌われる不快な存在だから、家の中で一番下の身分なのだと言われていた。その通りだとシエルも思っていたのだが、確かにアルバインに来た以上、領主の妻となるなら使用人に『様』を付けてはリュスに失礼にあたるのかもしれない。
「わ、分かったわ……! エ、エ、エリ……」
覚悟を決めて、呼び捨てにしようと頑張る。だが、言葉が続かなかった。
「エ、エ……」
皆は、シエルと違って世の中の役に立っている存在なのだ。シエルより何もかも上のエリザに向かって呼び捨てをしようとすると、心がざわつき悪寒がしてくる。
お前は間違っていると。図々しいにもほどがあると。
二の腕を引き寄せて小さくなるシエルを見て、エリザが優しくシエルの肩を撫でた。
「……では、エリザさん、ではどうです?」
「あ、エ、エリザさ……ん」
「ふふ、よくできました」
エリザに微笑まれて、シエルは膝から崩れ落ちそうになる。心臓がどくどくいって、嫌な汗が吹き出てきた。
「さ、おめかしの時間ですよ。座って下さいまし!」
「は、はい……」
場違いな居心地の悪さにザワザワとした気持ちを抑え切れないまま、今度こそ失敗はしない、と大人しくエリザに従うことにしたのだった。