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4 クラウス・レドル

 背後から突然話しかけられ、シエルはビクッと身体を震わせる。声の主が苦笑するのが分かった。


 身体が縮こまるのを止められないまま振り返る。二人の背後に立っていたのは、茶色い短髪を後ろに撫で付けている、見目のいい黒服の若い男だった。柔和な笑顔でシエルを見下ろしている。


「は、はい……」


「はじめまして。私、リュス様の補佐役を務めさせていただいております、クラウス・レドルと申します」

「レドル様……は、はじめまして」


 慌てて膝折礼をすると、クラウスが怪訝そうな顔をした。


(礼が不格好だったのかしら? それとも何か粗相でもしてしまったのかしら)


 シエルが不安で固まっていると、クラウスは驚いた顔のまま、少し掠れた声を出す。


「……あの、私は補佐役の者ですが」

「? はい」


 何がいけないのか、何を確認されているのか、シエルには分からなかった。クラウスの視線が、鞄の柄を掴んだまま止まっていたシエルの手に注がれる。


 シエルは「なるほど、これか」と気付くと、急いで鞄を下ろすことにした。さっさとしろと言いたいのだと理解したのだ。


 すると、クラウスが慌てて鞄を奪う。


「なにをやられているのです!」

「え? あ、あの、荷物を運ぼうかと」

「はあっ?」


 急に大きな声を出され、シエルは思わず目を閉じ唇を噛んだ。また叱られる。シエルはきっと何か大きな失敗をしてしまったのだ。


 だが、しばらく待っても、クラウスは何も言ってこないし叩いてもこない。あれ? と思ったシエルは、ゆっくりと瞼を開いた。


 クラウスは相変わらず驚いた表情のままだったが、どうも怒ってはいないようだ。これなら謝罪すれば許してもらえるかもしれないと考えたシエルは、深く頭を下げる。


「ご、ごめんなさい……許して下さい」

「えっ! 頭を上げて下さい! ええっ?」


 あまりにもクラウスが慌てた様子だったので、シエルは更に失敗してしまったのかとそろそろと頭を上げた。目の前には、困り顔でシエルを見下ろしているクラウスがいる。


「シエル・ユースタイン様。もしや、我が主の『冷徹辺境伯』という噂をお聞きになって怯えていらっしゃいます?」

「え……っ」


 確かに冷徹とは聞いていたが、どうして冷徹という言葉がここで出てくるのかとシエルが訝しんでいると。


 クラウスがほわりと穏やかな苦笑を浮かべたではないか。


「あの、我が主は堅物ではありますが、無条件に罪のない者を罰するような人間ではありませんからご安心下さい」

「いえ、そういうつもりでは……っ」

「とにかくお部屋へご案内致しますので、さ、どうぞこちらへ」


 どうやら怒られてはいなかったらしい。シエルの鞄を手に歩き出してしまったクラウスの後を、慌てて付いていく。振り返り御者の老爺にぺこりと会釈すると、老爺はにこやかに手を振り返してくれた。


 クラウスに続いて、居館の玄関扉を潜る。中は外よりも薄暗く、一瞬何も見えなくなった。瞼をぎゅっとつむってから開けてみると、床に敷き詰められた毛の短い深紅の絨毯が視界に入る。


(上等そう……)


 なるべく端の方を歩いた方がいいのかと前にいるクラウスを見たが、クラウスは気に留めた様子もない。シエルは意を決して一歩踏み出した。ブカブカの靴の下に、ふか、と柔らかい感触を感じ取る。


 靴裏が汚れていないか気になり、慌てて片足の裏を見ると、スポンと靴が転がっていってしまった。大慌てで裸足で駆け寄り靴を履いている間、何故かクラウスは興味深そうな顔でシエルを見ていた。


(ま、またやってしまった……)


 まだ到着したばかりだというのに、もうふたつも失敗してしまった。これ以上失敗したら、夫となるリュス・アルバインに会う前に追い出されてしまうかもしれない。


 シエルは気合を入れ直すと、今度はそろそろと慎重に歩き始めた。


 クラウスの頬がひくひくと揺れているのは、怒りからだろうか。あまり怒っている表情には見えないが、優秀そうなので、表情を隠すのは得意なのかもしれない。


 玄関を入ってすぐに広間があり、両奥には湾曲した階段があった。クラウスは右の階段を登り始めたので、シエルも慎重に階段を登っていく。靴が大きいので、階段は登りづらい。ここで転んだり落ちたりしたらまた迷惑がかかる、とシエルは階段を登ることだけに集中した。


 努力のお陰か、踊り場まで無事に到着する。折り返した階段の先で左側の階段と合流し、最後は二階部分へ数段登るようになっていた。


(うわあ……っ!)


 登った先、正面に見えたのは大広間だ。広間の内部は暗いが、最奥にある大きな窓から差し込む光が見える。左右に折れると奥に続く廊下があった。この先に居室などがあるのだろうか。


 クラウスは右手に進むと、廊下を進んでいった。廊下の石壁には角灯が掛けられており、幻想的な雰囲気が漂う。ブランデンブルグの屋敷は見せるための調度品や絵画が所狭しと飾られており、通路の壁面は模様の入った壁紙で彩られていた。


 あそこに比べたら、かなり質素だ。資金繰りに困っているからなのか、それとも堅物という人柄から贅沢を好まないだけなのか。いずれにしても、よろけて壁に手を突いて叱られることはなさそうで安堵した。


 扉が連なる廊下を暫く進んでいくと、突き当りの両開きの扉の前でクラウスが止まる。腰にぶら下げていた鍵の束からひとつを取り出すと、扉を開けた。


「こちらが奥様専用のお部屋となります」


 突然奥様と呼ばれてシエルがぎょっとすると、クラウスはいたずらっ子のように楽しげに笑う。


「おや、まだ気が早かったですかね。ご結婚が成立するまでは、何と及びすればよろしいでしょうか?」

「え? あの、名前で大丈夫、です」


 とりあえず、今の段階ではクラウスからは敵意を感じない。いくらシエルが醜くても、資金を持ち込んできた相手だ。今はまだ我慢してくれているのだろうと思うと、クラウスの思いやり深さに涙ぐみそうになった。


「それではシエル様。すぐにシエル様付きの侍女を寄越しますので、しばらくお寛ぎ下さいませ」


 クラウスが流れるような仕草でお辞儀をしたので、シエルも慌てて頭を下げる。


「あ、ありがとうございました!」

「いえ、これが私の職務でございますから」


 クラウスは朗らかな笑みを浮かべたまま、部屋から出て行った。


 

 侍女が来るというので、シエルは立ったまま待機していた。


 まるでお姫様用みたいな天蓋付きの大きな寝台は、近寄ることすら抵抗を覚えてしまっていた。他には寝転がっても足が伸ばせそうな上等そうな長椅子があったが、旅の間は身体を軽く拭くだけで、服も汚れてしまっている。座って汚してしまったらと思うと、立っている選択肢しか残されていなかったのだ。


「――失礼致します」


 畏まった声が、扉の外から聞こえてきた。


「は、はいっ」


 シエルの声が、緊張でひっくり返ってしまう。ブランデンブルグの使用人は、いつも汚物を見るような目でシエルを見ては鼻で笑っていた。クラウスは我慢強い人だったからそういったことはなかったが、侍女だとまた違うかもしれない。


 髪の毛で顔を隠そうか、と迷っている間に、扉が開き黒いドレスに白いエプロンを付けた年若い女性が入ってきてしまった。


 シエルよりも背が高く、濃いめのふわふわの金髪を後ろでひと括りにしている。頬はふっくらと可愛らしく、青い目が興味深そうにシエルを見ていた。


「シエル様、お初にお目にかかります。私、本日よりシエル様の専属侍女を務めさせていただきますエリザと申します」

「シ、シエル・ユースタインです。よ、よろしくお願いします……」


 消え入るような声になってしまったが、何とか言えた。ずっと見られていることに耐えられずに目を伏せていると、「はああ……」という溜息が聞こえてくる。


(また何かやってしまった……)


 どうして自分は失敗ばかりしてしまうのか。シエルがどこかに隠れたくなるくらい己を恥じていると。


「か……っわいいお方……!」


 何か場違いな単語が聞こえてきて、シエルはつい顔を上げてしまった。そしてぎょっとする。目の前のエリザは、両手を胸の前で組んで、満面の笑みでシエルを見つめているじゃないか。


「え……?」


 シエルが声を発すると、エリザは正気に返ったらしい。


「はっ! 私ってば、失礼致しました! 長旅のお疲れを取っていただくには湯浴みが一番ですからね、私が精一杯お世話させていただきます!」

「ゆ、湯浴み? お世話? え、どういう……」

「ふふ、お任せくださいませ!」


 シエルが固まっている間に、エリザはシエルの背中を抱き、隣接する浴室へと押していってしまったのだった。

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