2 いざ、アルバインへ
翌朝、朝食を部屋で済ませて落ち着かないまま待っていると、使用人に馬車が到着したと伝えられる。
「……分かりました」
普段着を数着詰めた後は特に入れる物もなくて、革の鞄は大きさの割にスカスカだ。本でもと思ったが、この家の物を持ち出さないで下さいと使用人に言われ、諦める。
夜の内に、一度だけ叔母が部屋にやってきた。シエルの荷物の中身を見て溜息を吐くと、「これでは私たちが虐げていたと思われるじゃないの。朝までにこちらで用意しておきます」と言って、部屋を出て行った。
シエルとアリエスは、同じ十八歳だ。この国では十八歳が成人なので、シエルもアリエスも結婚して問題はない。
アリエスは出るところが出ている肉感的な体型をしていたが、シエルは骨格からして細い上に少食だからか、貧弱な体つきをしている。
アリエスは衣裳持ちだったので、シエルはアリエスが着なくなった服をもらい、比較的ブカブカに見えないものを選んで着ていた。
叔父一家は、存在するだけで人を不快にさせるシエルの衣食住を支えてくれた、ありがたい存在だ。追い出さずに受け入れてくれたことには、感謝しかなかった。
慣れ親しんだ部屋を出ると、静かな屋敷内を進む。すでに仕事を始めていた使用人たちは、シエルに一瞥をくれた後はすぐに仕事に戻っていった。
屋敷を出たが、叔父一家の姿はない。
(……当然よね)
少しでも期待していた自分を恥じた。こんな醜いシエルを家族のように送り出してくれることなど、期待してはいけなかったのに。
遠い昔に両親に甘やかされ愛された記憶が、シエルの心を余計に苦しめた。何もないシエルには愛される資格などないのに、血が繋がっているからと少しでも希望を持っていた自分の浅ましさが嫌になる。
玄関を出て屋敷の前で待っていた馬車の御者に荷物を渡すと、もう一度だけ振り返った。八歳から十年もの間過ごした屋敷だから、少なからず愛着はある。
最初こそ、忌避されることに納得がいかず周囲の人間に好かれようと努力した。だが、シエルの顔が変わらない限りそれは起こり得ないことなのだと、やがては学んだ。
玄関の扉は、すでに閉じられている。シエルには、自分に対する拒絶の意思のように思えた。実際、そうなのかもしれない。
シエルが去る確認を行なう為か、執事がひとり佇んでいるだけだった。
(……今まで迷惑をかけて、ごめんなさい)
心の中で、叔父一家に謝る。扉に向けて深々と頭を下げると、シエルは静かに馬車に乗り込んだ。
ようやくいなくなることができた。
それだけが、シエルの喜びだった。
◇
馬車の旅は、決して快適とはいえない。だが座席の固さよりも、乗ること自体が怖かった。
馬車に乗るのは、あの惨劇の日以来だったからだ。
馬のいななきと共に、野盗が馬車に乗り込んでシエルを外に引っ張り出すのではないか。御者の悲鳴が聞こえてきたら、どうしたらいいんだろう。
どうやっても蘇ってくるあの日の記憶を振り払おうとするだけで、時間は過ぎていった。
幸い、かつて両親と共に馬車に乗っていた時のように野盗に襲われることもなく、十日ほどで無事にアルバインの領土に入る。
(生きていられた……)
安堵したシエルは、生き延びたことを神に感謝し、静かに祈りを捧げた。必要以上に欲しいと願うことの欲深さがいかに罪深いか、改めて実感する。
生きているだけでいい。両親が命を賭して守ってくれたこの命だけは、どんなに蔑まれようが不要と言われようが、シエル自ら捨てはしないと決めている。
何故なら、シエルの命は、誰か大切な人の命を守る為に残された筈だからだ。
誰に言われた訳でもない。だが、何故お前だけが生き残ったのかと言われ続け、シエルはずっと考えていた。
考えて考えて、きっと神がシエルだけを生かしたのは、どこかの未来でシエルの命が誰かの役に立つ日が来るからだ、という結論に至った。
だから、髪の毛一本ほどの価値すらない命ではあっても、シエルは自分の命を軽々しく捨てられない。
それが故に、叔父一家には散々迷惑をかけてしまった。だが、シエルと違い、両親は人々に好かれ慕われる存在だった。そんな両親の命を犠牲にして守られたシエルが守るべき命は、きっと尊い筈だから。
いつかどこかで、この命を必要とする人がいる。その為にシエルは今も生きていると、そう信じていた。
◇
旅の同行者は御者ひとりで、白髪の老爺だ。
耳が遠い為、声が小さいシエルとでは意思の疎通が容易にできない。老爺が大声で質問をするのに対し、首を縦に振るか横に振るかだけの会話が、気楽で助かった。
シエルの目のことは、聞かされていないのだろうか。前髪の隙間から嫌でも時折見えるだろう色を見ても、何も反応を見せない。もしかしたら、色弱なのかもしれなかった。
厭う目で見られないのは、久々だ。両親と過ごしていた頃は、自分の目が不吉だとは知らなかった。呑気におでこを見せていたことを思い出す。
そこで気付いた。
(……さすがに、目を隠したままは駄目よね)
顔を隠したままの嫁など、あり得ないだろう。外に出ることを許されず自身も望まなかったシエルだったが、本を読んでひと通りの知識は蓄えていた。
ブランデンブルグの家では、叔父の言葉が全てだった。だから叔父が「見せるな」と言ったから、シエルは命令に従った。
ならば、目を隠せと言われるまでは出していよう。蔑む目で見られるのは、抵抗はあっても以前よりは慣れたからきっと大丈夫だ。夫となるアルバイン伯爵が二度と見せるなと言った時に隠せばいい。
これまで顔を隠さずに過ごせるのは、自室の中だけだった。だが新しい環境でなら、もしかしたら醜いとは思われつつも許されるんじゃないか。
淡い期待を胸に、窓の外を見た。季節は夏だというのに、雪を被った山々が見える。アルバイン領は高原にあるので、平野にあるブランデンブルグと比べると、空気が冷たい。
(私の命を使う相手が、ここにいたらいいな……)
早くその人と出会いたいと願った。
そうしたら、今度こそシエルは両親の元に行けるから。
◇
遠くにアルバイン城が見えてきた。
アルバイン城は、高台を登り切った先、切り立った崖の上にそびえているらしい。御者の老爺が、大きな声で「落ちたらひとたまりもありませんよ!」と教えてくれた。
幼い頃に見た、王都がある平野部にある煌びやかな城とは違い、色は濃い灰色で全体的に角ばっている。権威を見せつける用途ではなく、戦いに備える為の形なのだろう、とシエルは考えた。
もっとじっくり見たくなって、部屋以外では久々に前髪を左右に掻き分けて、後ろでひとつに括る。ブランデンブルグの時と同様、外出禁止命令が出される可能性は十分にある。どのくらいの期間滞在することになるかは未知数だが、叔父が違約金を積んだことから、体面上すぐに追い出すことはしないのではないか。
すると、外側から城を眺める機会はそうは訪れないだろう。
冷たい風が流れる窓の外に顔を出すと、シエルは段々と近づいてくるアルバイン城をじっくりと観察し始めたのだった。




