13 盗み聞き
クラウスは、「リュス様の許可がありませんと」と言っていた。つまり、リュスの許可があればいいということだ。
だが、リュス本人に尋ねようにも、とにかく会えない。日々軍の訓練を行なう合間に執務をこなし、魔物や野盗が出たと聞けば御大自ら先陣を切って行ってしまう。
一体いつ寝ているのかと思うくらい、リュスは多忙を極めていた。
討伐のついでに山に籠もり、狩りも行なう。帰ってくれば、不在中に溜まった執務をひたすらこなす。書類仕事が片付くと、またいなくなるの繰り返しだった。
シエルは自身の口下手を認識している。どもるし、緊張で要領を得ない話になるのは目に見えている。
理路整然と話せないシエルが自分から話しかけて相手の時間を無駄にするのではと考えてしまうと、執務中のリュスの元に押しかけて「仕事がほしい」と言うのもこれまでは憚られた。
ならば晩餐の時にと思っても、ひと月の間で一緒の晩餐を過ごせたのはたったの二回だ。
一回目はまだ勉強を始めたばかりの頃で、シエルはまだ仕事がほしいと言えなかった。
二回目はつい先日で、そろそろ話を切り出そうと時機を見計らっていたところ、町の近くに魔物が出たとの伝令が飛び込んできて、あっさり機会を失った。
いつ戻るのかと待っていること、数日。昨夜遅くに城内が騒がしくなっていたので、リュスが無事戻ってきたらしいことを知る。
(ということは、今日はさすがにいらっしゃる筈よね)
朝餉は基本部屋で取っている。普段なら礼拝堂に行き本を読みに行く時間だが、シトシトと降る冷たい雨を見たエリザに「風邪を引いてしまったらどうするんですか! お願いですからお部屋にいて下さい!」と懇願されたので、今日は部屋での読書が決まっている。
エリザは先程、飛ぶように部屋を出ていってしまった。
つまり、シエルは今はひとりである。ということは――。
(今がリュス様に直談判しに行く絶好の機会……!)
忙しいリュスに時間を取らせるのは申し訳ないが、かといってこのままズルズルと何もしないままでは拙いと思う。
シエルは深呼吸を繰り返し気持ちを落ち着けると、ゆっくりと立ち上がった。
(い、行くわよ……!)
いきなりシエルが現れたら、リュスは不快になってしまうのではないか。だが、不快に思われるよりも更に怖いのは、シエルが「何者でもなくなる」ことだった。
何もしない、何もできない、いてもいなくても何も変わらない人間。
ブランデンブルグではいない者として扱われてはいたが、彼らはシエルを見ると必ず反応を示した。
叩かれたり罵られたりと決して好ましいことではなかったが、少なくともシエルはその瞬間、そこに存在したのだ。
このまま何もせずに過ごしていたら、シエルは無になってしまう。
シエルは、アルバインの地にまだいても良いと言われる存在になりたかった。
それだけ、このアルバインのことが好きになっていたのだ。
◇
そろりと部屋を抜け出すと、辺りの気配を窺いながら廊下を足早に進む。
ブランデンブルグで過ごした期間、シエルはひたすら気配を消す練習を重ねた。息を潜めじっと隠れていると、案外気付かれないものだ。
相手を不快にさせない為に編み出した方法だが、これは同時にシエルの心も守ってくれた。
叩かれるのも罵られるのも、当然で仕方ないとは思っても、やはり好きにはなれない。どうしたって、される度に心はどんどん傷付いていった。
なにか奇跡が起きて、こんなシエルでもそこにいていいのだと言ってくれるんじゃないか。
シエルのことが好きだと、愛していると言ってくれる人が現れるんじゃないか。
醜くても虹彩異色の色味の薄い金と銀の瞳が不気味でも、気にしないでいてくれる人は広い世の中にひとりはいるんじゃないか。
誰ひとりにも愛されたことがなければ、願わなかったかもしれない。
だけどシエルは確かに両親に愛されていた。愛してると言われ、愛してると言える相手がシエルにもいた。
無償の愛を与えてくれた存在の記憶があるが故に、シエルは諦めきれなかった。
そして今、このアルバインの地でシエルは「ひょっとして」と思い始めている。
生きていていいと、笑っていいのだと許してくれる人たちがここにはいるのではないかと。
(……誰もいないわね)
廊下を抜け、大広間の前を通り過ぎる。階段を登って左側に、リュスの執務室があるのだ。左右対称の居館の右奥がシエルの部屋、左奥がリュスの執務室となっている。
リュスの私室は、主塔の上階にあるそうだ。主塔は敵に攻め入られた時、最後の砦となることが想定されている。その為、居館よりも頑丈に作られており、領主の部屋も塔内にあった。
辺りを見渡す。誰もいない。階下から楽し気な話し声が聞こえるので、使用人たちは一階に集まっているのだろう。
(……よし!)
絨毯なので余程バタバタと走らない限りは足音は立たない筈だが、部屋を抜け出したことがバレてしまうと驚かせてしまう。
シエルは素早く静かに廊下に入ると、なるべく気配を消しつつ突き当たりの部屋、リュスの執務室へと向かった。
そろりそろりと進むと、執務室の扉が見え始める。きちんと閉まっていなかったのか、扉が少しだけ開いていた。
(これなら声も掛けやすいかも……!)
扉を叩いて中にいる相手を呼ぶとなると、相手の様子が見えない状態だとシエルには難しい。だが、中の会話が途切れた時を見計らえば、不快に思われないのでは。
シエルは扉に近付くと、耳を近付けた。
中から、リュスとクラウスの声が聞こえてくる。
バサ、と紙か何かを投げたらしい音がした。次いで、リュスの低い声がする。
「……これで全てか」
(リュス様の声は、落ち着く――)
殆どリュスと会話することはないが、リュスの落ち着いた佇まいと聞きやすい低めの声は何故か安心できる。
ブランデンブルグの叔父のように声を荒げることがないからなのかもしれない、とふと思った。
淡々としたリュスは、傍にいると心地いい。
「報告によれば、担当していた使用人が首を言い渡されており、探し出すのに時間を要したそうです」
何の話だろうか。でも、会話を止めて割り込む勇気はシエルにはない。盗み聞きとなってしまってるのは申し訳ないと思いつつ、引き続き耳を澄ませた。
「……これは全て事実なのか? 気弱な様子が演技だとは思わないか」
「リュス様はまだあまり交流されてませんからお気付きないかもしれませんけどね、あの怯え方は本物ですよ」
……これは何の話だ。シエルは眉間に皺を寄せる。
クラウスが続けた。
「虫が飛んできて、咄嗟に手で振り払ったことがあるんです」
「……うむ」
「腕を振り上げた瞬間、目を閉じて身体は強張って、顔色は真っ白になっていました。意味はお分かりですよね」
シエルは目を見開いた。夏場は虫も多い。中庭をエリザとクラウスと共に歩いていた時、腕が振り上がるのを見てブランデンブルグでのことを思い出してしまったことはあったが――。
「……あの毒蛇と言われるブランデンブルグの血筋だぞ」
シエルは息を呑んだ。やはり自分の話だったのだ。
変わらず抑揚のないリュスの声とは対照的に、クラウスの声が荒々しくなっていく。
「知ろうともせず、よくそんなことが言えますね!」
「クラウス……?」
不思議そうなリュスの声がした。
「あのお方が毎日何をされているかご存知でしょう! 今私が何を言われているか知ってますか? 雑用でもいいから仕事がほしいですよ。追い出されやしないかと、毎日怯えているんです!」
「……!」
リュスの息を呑む音がする。
「――愛されないことを当然と思っているようにしか見えません」
「俺にどうしろと……」
リュスの声は、掠れていた。
「名実共に夫婦となればよろしいではないですか。このままでは、あの方が不憫すぎます」
「俺は愛さないと……っ」
クラウスがリュスの言葉を遮る。
「それにあの方は、きっと裏切りませんよ。いや、裏切れないと思います」
クラウスの言葉を最後に、部屋からは話し声が聞こえなくなってしまった。
(この場に入っていくなんて、できる訳がない……!)
頭は完全に混乱しながらも、シエルはそろりと静かに後退る。
シエルがいてはいけない場所から立ち去る為にブランデンブルグで覚えた技は、もう必要ないと思っていた。
だけど、アルバインでも結局は使うことになってしまった。
シエルは嗚咽が出そうになるのを堪えながら、自室へと駆け戻ったのだった。




