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作者: ととうらひつじ

目の前のボタンを、エヌ氏はついに押すことができなかった。


エヌ氏は刑務官であり、先日、死刑の執行人になるよう言い渡された。

具体的に言えば「処刑するボタンを押す」役目。エヌ氏はそう告げられた途端、自身の心臓が急速にドクドクと脈を打ち始めるのを感じた。


現状の死刑のやり方はこうだ。

死刑囚は執行室に入り、椅子に座る。別室には執行人が三人と、処刑するボタンが三つある。執行人がボタンを押すと死刑囚の椅子に電気が走り、処刑が完了する。

なぜボタンが三つもあるのかと疑問に思うかもしれないが、それは電気椅子が複雑なシステムだからではない。厳密に言えば処刑に必要なボタンは一つだけで、あとの二つは押しても意味のないダミーになっている。そうであるにも関わらず、わざわざこんな仕組みにしているのは、執行人を配慮してのことだ。三人が同時にボタンを押すことで、誰が実際に刑を執行したのかを分からなくさせる。

それほど、執行人に対する負担は大きい。


エヌ氏は執行人になるよう言い渡されてから執行日の今日まで、非常に悩み、苦しんだ。眠れない日々を過ごし、自分が人を殺してしまうのかもしれないと思うと精神が不安定になった。

頭と心がグラグラし、息が苦しい。ボタンの前に構えた指はガタガタと震えている。ついに執行の合図が出るというその時、エヌ氏の視界はぐにゃりと曲がり、目の前が真っ暗になった。


――エヌ氏はボタンを押せなかった。

このことは関係者の間でも問題となり、後日議論がかわされることとなった。


重大な事件を起こした犯人は死刑にせよ、と国民は言う。こんな凶悪な罪を犯した者が生きていていいわけがない。社会に戻ってくるのが不安だ。生きていればまた同じことを繰り返すかもしれないと。

自分が直接関与しないのであれば、そう言うのは簡単だ。処刑という残酷な作業を国民は実際には行わない。死刑が執行されましたという事後のニュースを聞くだけでその凶悪な存在は消えてくれる。

だが、執行人は違う。


エヌ氏は訴えた。

「いくら凶悪な犯罪者であったとしても、その人を私は実際にこの指で殺すのだ。そんなことは耐えられない。しかし国民は死刑にするべきだと言う。ならば、死刑にするべきと主張する国民がやるべきだ。このボタンの重みを、国民は感じていない。それをなぜ私だけが背負わないといけないのか」


議論は激しく交わされた。

そんなことをすればたちまち国民から非難の声が上がるだろう。いざやろうとすれば、誰もやりたがらないに決まってる。だが凶悪な犯罪者を生かしておくわけにもいかない。一方で、執行人に対する配慮が必要なのも事実だ。

そんな中、誰かが提案をした。


「それならばやはり、国民にその重責の一部を担ってもらいましょう。なに、実際には誰かが責任を感じることはありません。今はインターネットが発達していて、あらゆる機器を遠隔からでも操作することができます。日常には当たり前のように押すボタンはたくさんあります。炊飯器、エレベーター、リモコン、スマートフォンもそうでしょう。それと連動させるのです。国民の誰かの、何かのボタンが死刑執行ボタンと連動するのです。安心してください。押した本人はわかりません。今まで執行人の精神的負担を減らすための人数は三人でしたが、人数だけで言っても国民全員となれば一億分の一です。まさか自分がきっかけだとは思わないでしょう。どのボタンと連動しているのかも都度ランダムに変更されます。国民はいつものように日常の中のボタンを押すだけです。それで刑はいつの間にか執行されるのです」


その新しい死刑執行案は秘密裏に切り替えが行われた。そのことを国民に知らせてしまうと、やはりボタンを押すことに疑心暗鬼になってしまうのではないかと考えられたからだ。

こうして「死刑執行人」と名する者はいなくなった。


エヌ氏は役目と重責から解放され、その後しばらく療養のために休みをとっていた。のんびりとした、あたたかい日の午後だ。

テレビをつけてみると、ちょうど速報が入った。そのニュースによると、たった今死刑が執行されたとのことだった。










目の前のボタンを、エス氏は押してしまった。


エス氏は刑務官であり、先日、死刑の執行人になるよう言い渡された。

具体的に言えば「処刑するボタンを押す」役目。エス氏はそう告げられた途端、自身の心臓が急速にドクドクと脈を打ち始めるのを感じた。


エス氏は執行人になるよう言い渡されてから、執行日の今日まで、非常に悩み、苦しんだ。悪夢にうなされる日もあった。

しかしエス氏は自分が刑務官になった時から、いつかこんな日が来るだろうとも思っていた。これは必要な職務で、誰かがやらなければならない。自分が人を殺してしまうのかもしれないという恐怖心はあったが、死刑の執行は執行人に対する配慮もされている。三人のうち、誰のボタンによって電気椅子が作動したのかは分からない仕組みだ。それを知ることができないのであれば、実行したのは自分ではなかったと思い込むしかない。


エス氏はボタンのある部屋に入った。隣を見ると、同じ執行人であるエヌ氏は青ざめ、カタカタと震えている。声をかけようかとも思ったが、人の心配をしているほどの余裕はエス氏にもなかった。


そして、ついにその時が来た。幹部の合図で、エス氏は目の前のボタンを押した。

それと同時に、大きな音がした。エス氏が驚いて音の方を見ると、エヌ氏がもうひとりの執行人にぶつかるようにして倒れていた。

幹部の合図と同時に押されるはずだった三つのボタンは、ひとつしか押されなかった。


死刑囚は死んだ。


このことは関係者の間でも問題となり、後日議論がかわされることとなった。

エヌ氏は訴えた。

「いくら凶悪な犯罪者であったとしても、その人を私は実際にこの指で殺すのだ。そんなことは耐えられない。しかし国民は死刑にするべきだと言う。ならば、死刑にするべきと主張する国民がやるべきだ。このボタンの重みを、国民は感じていない。それをなぜ私だけが背負わないといけないのか」

エス氏はその主張を黙って聞いていた。


議論は激しく交わされた。

そんなことをすればたちまち国民から非難の声が上がるだろう。いざやろうとすれば、誰もやりたがらないに決まってる。だが凶悪な犯罪者を生かしておくわけにもいかない。一方で、執行人に対する配慮が必要なのも事実だ。

そんな中、エス氏が提案をした。

誰も責任を感じず、国民に死刑執行するボタンを押させる方法。


「国民の誰かの、何かのボタンが死刑執行ボタンと連動するのです。安心してください。押した本人はわかりません。今まで執行人の精神的負担を減らすための人数は三人でしたが、人数だけで言っても国民全員となれば一億分の一です。まさか自分がきっかけだとは思わないでしょう。どのボタンと連動しているのかも都度ランダムに変更されます。国民はいつものように日常の中のボタンを押すだけです。それで刑はいつの間にか執行されるのです」


中でもエヌ氏はこの方法を妙案だと言い、喜んだ。その場にいた関係者も皆この提案に賛成した。


新しい死刑執行案は秘密裏に切り替えが行われた。そのことを国民に知らせてしまうと、やはりボタンを押すことに疑心暗鬼になってしまうのではないかと考えられたからだ。でも問題はない。何かのボタンが死刑執行ボタンと連動するかもしれないということを、エヌ氏は知っている。

切り替えは発案者のエス氏が主に行った。


エス氏は、エヌ氏がボタンを押すのを静かに待った。










目の前のボタンを、ワイ氏は押したかった。


ワイ氏は刑務官であり、先日、死刑の執行人になるよう言い渡された。

具体的に言えば「処刑するボタンを押す」役目。ワイ氏はそう告げられた途端、自身の心臓が急速にドクドクと脈を打ち始めるのを感じた。


ワイ氏は執行人になるよう言い渡されてから、執行日の今日まで、非常にそわそわした心持ちだった。複雑な気持ちで日々を過ごした。

ワイ氏は自分が刑務官になった時から、いつかこんな日が来ないだろうかと思っていた。これは必要な職務で、誰かがやらなければならない。自分が人を殺してしまうのかもしれないという恐怖心も当然ありはしたが、ボタンひとつで人の命を左右すると思うと妙に気分が高揚した。重要な役目だと思った。しかし死刑の執行は執行人に対する配慮もされている。三人のうち、誰のボタンによって電気椅子が作動したかは分からない仕組みだ。それを知ることができないのであれば、実行したのは自分であったと密かに心の中で思いたかった。


こんな風に心の内を明かすと誤解をされてしまいそうだが、ワイ氏はなにも凶悪な人物なわけではない。日々職務をきちんとこなしていたし、責任感が強く、幹部からの信頼も厚い。今まで人を殴ったり傷つけたこともなかった。


ワイ氏はボタンのある部屋に入った。目の前のボタンは、押そうと思えば簡単に押せてしまうのだろうが、重々しい雰囲気が漂っているように感じられた。焦るような、逃げたいような、緊張した気持ちに駆られた。合図が出されるのをジリジリと待った。


そして、ついにその時が来た。幹部の合図で、ワイ氏は目の前のボタンを押そうとした。しかしそれと同時にどっとエヌ氏が倒れ込んできたのだ。

ワイ氏はボタンを押すことができなかった。

ボタンを押したのはエス氏だけだった。エス氏は呆然とこちらを見ていた。


死刑囚は死んだ。


このことは関係者の間でも問題となり、後日議論がかわされることとなった。

エヌ氏は懸命に訴えていたが、ワイ氏は何を言っているのだろうと思っていた。エヌ氏はボタンを押してはいない。押したのはエス氏だ。ワイ氏はエス氏を気の毒に思いながらも、ボタンを押したことに敬意を持っていた。


議論は激しく交わされた。

執行人の代わりに国民を選んで直接ボタンを押させようとすればたちまち非難の声が上がるだろう。いざやろうとすれば、誰もやりたがらないに決まってる。ワイ氏であっても、この場で手を挙げて、では私がやりますとは言えなかった。

だが凶悪な犯罪者を生かしておくわけにもいかない。一方で、執行人に対する配慮が必要なのも事実だ。

そんな中、エス氏が誰も責任を感じない方法で、国民に死刑執行するボタンを押させようと提案をした。ワイ氏は驚いたが、関係者は全員その案に賛成をした。


その新しい死刑執行案は秘密裏に切り替えが行われた。切り替えは発案者のエス氏が主に行った。ワイ氏はそこに加わり、切り替えを手伝った。


ワイ氏はボタンを押せなかったことが、くすぶった体験として心に残っていた。一億分の一の確率では、あのボタンの重みは感じられない。ボタンを押さなかったエヌ氏は命に対する責任から逃げ、エス氏は責任の所在を曖昧にする提案をし、あの場にいた者たちもそれに賛成した。ワイ氏は全員の覚悟のなさが許せなかった。これでは、自分は実行しないが死刑にしろと声高に言う無責任な国民となんら変わりはないと思った。

ワイ氏は死刑執行案の切り替えを手伝いながら、いくつか別のプログラムを仕込んだ。

あの場にいた者の押す何かのボタンが、時々、国民の命に関わるボタンと連動する。例えば、病院の誰かの生命維持装置を止める。押した本人は実際に連動されたかどうかは分からない。国民も誰が被害にあうかは分からない。だがこれは罰なのだ。人の命を奪い、その責任を薄め、曖昧にするというのは、そういうことだ。


いつものように日常の中のボタンを押すだけ。それで誰かの命はいつの間にかなくなる。

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