忍び寄る者
明日香はケーブルカーのチケット売り場に向かう。人の話し声がだんだんと大きくなる。しかし近づいてきてようやく知ったのだが、なんと長蛇の列であった。約30分待ちである。
もう、なんなのよっ!そんなこと考えてなかった。踏んだり蹴ったりじゃん!
「ええーもうどうしよう。歩くのは嫌だし、待つのも嫌だし。」
と思わずひとりごちた。だが、花梨に乗ると言った手前、さすがに乗らないわけにはいかない。重い脚を引きずりながらチケット売り場の列に乗ろうとした時だった。
売り場の背後のずっと奥深くに、鬱蒼とした木々のつくる闇で不気味に白く浮かびあがっている扉を見つけた。随分と昔にはそこに小屋のようなものが建っていたのだろうが、扉しか残っていない。遠くからでもその扉が今にも倒れそうになっているのがわかる。
明日香はなぜかその扉から目が離せなかった。粘液のように扉が目にまとわりつき、どうしても視線を逸らすことができないのだ。明日香は吸い寄せられるようにゆっくりと近づいていった。
サクッ、サクッ…。草を踏み分け、無心で進む。サクッ、サクッ…。頭上はだんだんと木に覆われ、薄暗くなっていく。サッ、サッ…。少し霧が出てきて、ひんやりとした風が吹く。サッ、サッ…。あたりに静けさが満ち、自分の息の音しかしない。ヒタ、ヒタ…。靴はいつのまにか水に浸っている。ヒタ、ヒタ…。あと少し。あと一歩。
ほっ。安堵でため息をつく。ようやく着いたっ…。改めて近くで見ると、傷跡が目立ち、茶色くくすんでいる。さっきから心臓がバクバクしている。扉の先に何かある予感がする。もしかしてこの向こう側は夢に出てくるようなワンダーランドだったりしないかなあ。取手に吸い付くように手を置き、恐る恐る押し開けた。
蝶番の軋む音と共に扉から光が漏れ出す。扉の向こうは薄暗い森ではなかった。夢の詰まった魔法の国、でもなかった。向こう側では扉は崖の淵にあるのだろう。小さな家と干からびた田んぼが見渡せた。まばらに歩いている人は擦り切れた服を着て、痛々しいほど細かった。緑の草木はほとんどなく、辺り一面茶色だった。なに、ここ…。もう少しよく見ようと身を乗り出す。その時、背後から影が差した。なんだろうと振り返ろうとした瞬間、「コウリュウ…」と呟く声が聞こえ、ドンッと突き出され、空中に浮かんだ。
えっええええきゃーーー……。残ったのは明日香の悲鳴と黒い人影だけだった。