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「ここは?」
茜は陽花に連れられ、とある一室に来ていた。
多種多様な装置が置かれている空間。これらは全て感情を解析したり、アビスに関する生体反応を解析したする装置だ。
「ここよ」
陽花は今回使う装置のところに茜を案内する。
ベッドのような寝そべる場所があり、枕元には頭に装着する機器が置かれている。
初めてみる大きな装置に茜は少し怖く感じた。
「これは、『MRS(Memory Remind System)』。通称、記憶想起システム。あの夜、あなたに何があったのか、具体的に知るためにあなたの記憶を調べさせてもらうわ。もしかすると、少し苦痛を伴うかもしれないけれど、我慢してもらえるとありがたい」
記憶想起システムによって茜の記憶を呼び起こし、彼女をアビス化させた要因を探る。
シナーがアビス化するなんてことは極めて稀な例。それが起こるということは、自分たちが知らない裏で何かが起こっている。
「一つ質問なんだけど、白崎さんは自分がアビスになった記憶をどれくらい覚えている?」
「……」
茜はスッと考え込むようにあの日の記憶を掘り出す。
身の知らない男に、切られた右腕を見せられ、無意識に動く体で何人もの人間を殺めた。
思い出すだけで息が詰まるほどの恐怖に駆られる。
「少し辛いかしら。でも、頑張って」
陽花は茜を励ますように彼女の手を繋ぐ。茜は先程まで冷たかった自分の心がみるみるうちに暖かくなっていくのを感じた。今は一人じゃない。自分を守ってくれる存在が目の前にいる。
だから、茜は安心してあの日のことを鮮明に思い出そうとした。
「あの日、何があったのか教えてもらって良いかしら?」
「……あの日、私の活動区域でアビスの事件があったので、私たちはビルへと向かいました。二手に分かれてアビスを鎮圧しようとして、私はチームの一人と上の階からアビスを探しました。その最中、私のところに知らない人……いえ、私が誘拐された時、そこにいた人にプレゼントがあると言われて……それで……その中身が……」
茜の呼吸が乱れていく。自分がアビスとなることになった引き金。その恐怖は簡単に拭えはしない。
陽花はぎゅっと彼女の手を握る。別の場所へと感覚を移すことで少しでも恐怖を抑えさせる。
「自分の言葉で話さなくて大丈夫よ。一つだけ気になっていたけれど、あなた、誘拐された時の記憶を思い出しているの?」
「……はい。あの時の出来事を通して、モヤモヤしていた記憶が鮮明に甦ってきたんです」
「そう」
それは好都合。
彼女の前で言うのは、流石にデリカシーがないため言いはしないが、これは一つ前に進める指針になる。
「じゃあ、今から少しだけ白崎さんの脳を解析させてもらうね。難しいかもしれないけれど、今の記憶を自分の頭の中で反芻して」
陽花は茜にベッドに寝そべるよう促す。
茜は言われた通り、ベッドへと身を乗り上げ、そこに寝そべる。
「あの……桐風さん……」
「どうかした?」
「その……私がここで寝そべっている間も手を繋いでいただくことって……できないですか?」
この記憶を一人で思い出すのは辛い。せめて隣に誰かいて、安心感をもらいたかった。
「……わかったわ。予絆、操作をお願いしていいかしら?」
「わかった」
流石に先程の過呼吸を見せられては、そばにいた方が良さそうだ。彼女の負担は少しでも減らしておこう。陽花は予絆に装置の操作を任せ、自分は彼女の横に座った。
茜はヘルメット状の機器を頭につけるとベッドへと寝転ぶ。そこで陽花は茜の手を再び握った。
「私はここにいるから、安心して思い出しなさい」
「……はい」
「解析を始めるぞ」
予絆は装置につけられた電子パネルを操作し始める。
すると、装置の上部が七色に点灯する。それが、徐々に下まで駆け巡っていく。
そうして、下部まで来た光は茜のかぶる機器まで行き渡る。
茜は自分の記憶が湧き上がってくるのを感じた。
元々、意識的に思い出していた記憶が映像化して瞼の裏に浮かび上がってくる。
自分がアビスになった日の出来事の追憶。苦しい思いを必死に押し殺して直視する。
陽花は茜の握る手が強くなるのを感じると、こちらも強く握り返す。私はここにいると言わんばかりに。
その安心感から茜は目の前に映る男の様子を懸命に覗いた。
「情報収集完了だ」
予絆がそう告げると、不意に瞼の裏に映る景色が消えていく。
茜はその様子にホッと胸を撫で下ろした。安心感があったとはいえ、やはり恐怖という感情は少なからず残っていた。
「じゃあ、次は『誘拐時の記憶』を思い出してもらって良いかしら? もし辛かったら、一回休む?」
「いえ、大丈夫です。このまま続けてください」
「わかったわ。じゃあ、予絆、お願いして良いかしら?」
「了解した」
陽花の指示で、予絆は今一度パネルを操作する。
再び上部が七色に点灯。光が下まで流れていくと機器を明るく点灯させた。
茜の瞼の裏に今度は誘拐時の記憶が写っていく。
響き渡る兄の声。自分は襲いくる相手に必死に抵抗する。だが、相手の力が強く、強引に体をいじられる。
実際に起こっているわけではないのに、相手が振るう暴力や強ばった体に触れられる感覚が自分を襲う。
陽花からも茜の苦しんでいる様子が窺えた。
体がかすかに震え、強張っている。声をかけてあげたいところだが、下手に意識をこちらに向けるのは良くない。だから、手を強く握ることしかできない。
アビス事件は数時間に対して、誘拐は数日間にも及んでいるため、情報を収集するには、ある程度の時間を要する。その間、ずっと茜はおぞましい記憶と向かい合わなければならない。
予絆は、情報収集をしつつも、電子パネルに映し出された茜の『CEQ』を覗いていた。
一度アビスウイルスを患った彼女の『CEQ』の低下は少ないものだった。おぞましい記憶のフラッシュバックのはずなのに、負の感情の発生が少なく済んでいるのは、免疫によるものかはたまた隣に誰かがいてくれているからか。
陽花が『加賀美 凌駕は死んだ』と言った時も同じような現象が起こっていたため、前者の可能性はかなり高いものだと見込める。
茜は意識的に呼吸を整えようとする。
自分の今見ている景色は幻想だと何度も何度も言い聞かせる。
そうしなければ、また崩れ落ちてしまう気がしていた。
「情報収集完了だ。長い間、よく頑張ったな」
不意に予絆の声が聞こえると、茜の見ている景色が消えていく。
危機を被っていたことで現れる暗闇の世界に思わずホッとし、息を吐いた。
ゆっくりと起き上ろうとしたところで、陽花に握られたては解かれていく。
「よく頑張ったわね」
両手で機器をとると、陽花がこちらを向いて微笑みかけていた。
ちゃんとここにいてくれたことに安心したのか、体が脱力する。
「私の記憶は役に立てますか?」
「大いにね。あなたのおかげで前へと進めるわ」
「そうですか」
茜は陽花の言葉を聞くと、ふらふらと体を揺らし始めた。
凌駕が生きていたという安心、苦痛を伴う記憶の想起による疲弊、そして先程の麻酔が効いてきたのか激しい睡魔に襲われた。
前のめりに倒れそうになる茜を陽花は咄嗟に支える。
「すみません、ちょっとフラフラしちゃって」
「いいよ。今、ゆっくり休みなさい」
「はい、そうさせてもらいます……」
茜は陽花に体を預けるようにして、深い眠りへとついていった。
「すっかり好かれてしまっているな」
収集した記憶情報を自分たちへの端末へと登録したところで予絆がこちらへとやって来た。
「本当ね。私がこの子にしたことは、あまり好かれることではないはずなのにね」
自分はアビスとなった茜を殺そうとした人物なのに、ここまで心を開いてくれているのは不思議なものだった。
「この子も、たくさんの人たちを殺したけど、被害者の一人でもあるからさ。私たちにできることは、その元凶を駆逐してやることくらいだ」
だから、茜の記憶から奴らの正体と居場所を突き止めるしかない。
「すぐに取り掛かろう。奴らに好き放題させてやる時間は少ない方がいい」
「そうだな」
目的の情報を収集したところで、陽花と予絆は次なるステップへと足を進めた。