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スクリャービンの色  作者: 夢のもつれ
8/12

スクリャービンの共感覚

 重いドアを引っ張って中に入ると例のおばさんが出てきた。別にまた来たのかという顔はしていない。800円をまた払い、2階に上がって確かこの辺にあったはずだがと探してみると、奥の方に「スクリャービンの色」という小さな水彩とペンで描かれた絵があった。画家の名前があるはずのところには“Anonym”と書いてある。


 後ろに付いて来たおばさんに、息せき切って、

「これはどういう絵なんですか」と訊いてみたが、返事がない。解説はしないということかと苛立ったが、ふと思いついて、

「スクリャービンってどういう作曲家ですか」と訊いてみた。


「…1871年12月25日にモスクワで生まれ、1915年4月27日に同じくモスクワで亡くなっています。5つの交響曲と10のピアノソナタなどが代表作です。特に第4交響曲の『法悦の詩』や第9ソナタの『黒ミサ』が有名です。彼は『法悦の詩』を聴くときには太陽の目を真っ直ぐに見よと言っています。また、第9ソナタを弾いた折りには、わたしは魔術を使っていると言っています。こうした発言に垣間見られるように彼の作品には、エクスタシーの頂点における光の一者との神秘的合一、言いかえれば我自身が世界であり、世界自体が我であるという目くるめく瞬間において、真の自由が達成されるという……」


 音楽辞典の朗読のようなおばさんの説明に呆気に取られる。遮るように、「スクリャービンと色の関係は?」と訊く。


「スクリャービンにはいわゆる共感覚がありました。つまり彼は生まれつき音を聴くと色が見えたのです。こうした感覚は音楽家にはめずらしいものではありませんが、彼ほど共感覚にのめり込んだ作曲家はいないでしょう。『法悦の詩』についてリムスキーコルサコフに説明した際には、『あなた方はあらゆる感覚とともに生きるのだ。音のハーモニー、色のハーモニー、匂いのハーモニーとともに』と言っています。彼の色音階では、Gはバラ色がかったオレンジ色、Fは暗い赤、Fisは青、Aは緑でした」


「Gはソの音でしたっけ。Fisは何だかよくわかりませんが。それって子ども用のピアノの鍵盤に色が塗ってあるようなものですか?」

「そういう面もないことはないですが、調性や和声の問題と考えるべきではないでしょうか。つまりやや主観的な言い方になりますが、その曲の概念や感情といったものと解するのが適当でしょう」

「要はブルーからブルースという言葉ができたようなものですか?」

「その喩えはよく理解できませんが、スクリャービンの一つの特徴として先程も言ったように神智学への傾倒があります。これを通して彼は更に感情と色を結びつけています。怒りは赤、知性は黄色、偽りは灰色がかった緑、憎悪は黒といった具合です」


 音と色と感情が結びつく。何が何だかわからないが、元々音楽家なんて楽譜を見ただけで、音が頭の中に響くとかいう常人離れした連中だから理解できなくても仕方がない。棋士が盤面を見ずに指せるのと同じで素人には見当がつかない。…あんたの着ているピンクのセーターはどんな音と感情を現しているのかと訊いてみたい気がしたが、何か憑かれたように話を続けるおばさんの口元に短いヒゲが一本あるのに気づいて、思い止まった。


 またいつのことと知れない記憶が入り混じる。…ソファに半ば寝ころぶようにして、妻が鏡に向かって何かしているのを自分は見ている。でも、ここからはうまく見えず、化粧でもなく、肌の手入れでもなく、もっと意外なことをしているようにちらちらする影から想像が及んでしまう。どうして部屋から出て林でも散歩でもしないのか。木々の枝がぶつかってコーン、コーンという軽い乾いた音が響き合う。その音を聴いているとまた眠くなる。


 ソファの上でごろ寝したものだから、たいして眠らなかったのにいやな夢を見てしまった。数学の試験ができなくてうんうんうなっている夢だった。最近はあまり見なかったが、時々現れるテーマで、もう25年にもなるのになぜこんな夢で苦しむのかと思う。でも何かつらいことがあるときに数学の試験よりはましだと思って、気持ちを楽にしようと無意識に考えているのかなとも思う。それもいつものことで、夢だけが設定を少しずつ変えて苦しめてくれる。

 今日のはどうも欺かれて、受けなくてもいい試験を受けさせられているらしい。鏡の部屋に閉じこもっている妻が出てくるよう証明方法を考えろと言われた。非現実的な、非論理的な話だが、夢を作り出したのが自分だから文句を言っても始まらない。バカバカしいというか、情けないというか、色褪せた写真のような夢の場面がいくつか目に残る。…


 幻想と夢から覚めた想いで、はっとするとおばさんはまだ目の前にいた。みっともない真似をしていなかったか危ぶみながら、妻の歳格好や外見を説明して、ここに来ていないか訊いてみた。

「お客様一人一人のことはお答えできませんが、その絵がお好きな方は少なくありません」とそっけなく言う。


 しかし、それにしても妻がこの絵に何か触発されてファックスに書き込みをしたのだろう。ここに来ていたのだ。緑を基調にした絵で、妻が選んだ壁紙とも符合する。森の中のようで髪の長い少女が草の上に寝そべっている。遠くには青い月光に照らされた広い原っぱが見える。白っぽいので雪原なのかもしれない。


 緑とか、青とかいってもそう単純な色ではないが、あまり色の名前を知らないので仕方がない。建築士から無理を言って借りてきた壁紙の色見本を取り出し、妻が選んだ緑と比べようとすると、おばさんが小さな声を挙げた。確かに美術館で色見本を見るというのも非常識な話で、コンサートにメトロノームを持って行くようなものかもしれない。


 絵の緑と妻が選んだ見本は似ているようでもあり、違っているようでもあり、それよりはここのところ目にしている実際の壁の印象の方が近い。灰色がかった緑、偽りの色。しかし、偽りの感情というのは、楽しいとか、悲しいとか、不安だといった単純な感情とは違って、何を偽っているのかが問題だ。


 ふと思いついて妻が一時選んだという青の見本と原っぱを比べてみた。絵の中の色の方がはるかに深い青だったが、おばさんに見本の方を見せて、

「この色はどういう色ですか?」と訊いた。


「謎です。わたしにはわかりません」

 そう言って口を閉ざしてしまった。



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