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スクリャービンの色  作者: 夢のもつれ
6/12

山の美術館

 家へ戻ってみたけれど、30分ぐらいしか経っていない。少し早かったが、お昼を食べることにした。昨日、こんな田舎に身欠き鰊があるんだと思って買っておいたのを使って、鰊蕎麦を作った。麺は出来合いの乾麺だが、だしはかつお節をふんだんに使って作った。味醂の加減がむずかしいが、今日はうまくいった。


 作る手間と時間に比べて食べるのはあっという間だ。これだから独り暮らしの自炊はつまらない。丼と箸を洗って、ソファに座って掃出しの大きな窓から見える風景を眺める。正面の林は葉が全部落ちて、細い枝だけが空を区切って白く光っている。ほとんど一面落ち葉で被われている地面を所々、鉛筆ほどもある霜柱が溶けずに並んで押し上げている。


 タバコを2本吸うともう退屈してしまった。あの老人が言っていた美術館にでも行こうか、最近行ってないし。別に若い女なんかどうでもいいんだが、と言い聞かせながらコートに袖を通した。


 こちらの方だろうかと思いながら裏手の林の中を歩いて行く。道らしいところもロクな整備がされていないようで倒木や笹が多くて歩きにくかったが、何とか前に進んで行くと小川が流れていて、それに沿って更に行くと白く鈍く光る池に出た。水面はほとんど凍っていて、小川が流れ込んでいるところだけ暗い緑の水が揺れていた。


 池を過ぎるとだんだん開けてきて、八ヶ岳を望むことができる。また会ったねと挨拶したくなる。山を見ながら更に行くと昔の探偵小説に出てくるような広壮な洋館が見えてきた。5階建てくらいのくすんだベージュ色の石造りの建物で、確かにヨーロッパのお城の一画といってもおかしくない。

 誰がこんなところにと、唖然としながら近づいていくと向こう側が深い谷になっていて、とても降りて行く気がしないような山道がくねくねと続いているのが見えた。風景全体が目の前の洋館の大きな広間に掛かっている油絵のようだ。…


 どうやら裏から来てしまったようで、大きな車寄せのある玄関の方へ回ってみるとより一層豪奢なファサードに圧倒される。広い前庭の向こうに石組みの門が見える。青銅のドアの横に「山の美術館」と書いてある銅の小さなプレートが付いている。館の主は贅沢三昧の人なのに美術館の館長は控えめな人なのかなという妄想をした。


 自分はそんなに背が低い方ではないのに肩あたりにある重い取っ手を押し下げて中に入る。あたりを見回していると、亡妻と同じくらいの年格好の上品そうなおばさんが現われた。

「いらっしゃいませ、観覧ですか」

「開いてますか?」

「どうぞ」


 カウンターでチケットを買い、広い展示室に入って絵を見始めたが、小さな水彩画やパステル画がほとんどで、画家の名前も聞いたことのないものばかりなので、すぐに飽きてしまった。と言っても、他に客はいないし、誰も来そうもないし、おばさんが傍にいて気になる。何でも訊いてみればよさそうなものだが、自分はそういうことが極端に苦手だ。それに対し、こういう時でも妻は誰とでもコロコロ笑いながら話しをしたものだった。

「よくもあんなに考えなしに会話ができるものだ」

「内容なんてどうでもいいのよ」

「無内容な話を長々とするのが趣味なのか?」

「続けることに意味があるんだから仕方ないわ」

「意味?」

「どういう人かお互いに探っているのよ」


 800円も払ったんだからと思うと、一つずつ丁寧に見なければと考えてしまう。それで、タイトルと画家の名前しか書いていないラベルに5秒、絵に15秒、合計20秒ずつ見るという方針を立てた。そういう無意味なことをしているうちに、不意にこの付近、八ヶ岳山麓を一緒にドライブしたことがあるのを思い出した。ずいぶん前のことだけれど、ハワイよりは後だろう。

「この辺は池が多いのよね」

「うん、農業用の溜池かな。さっき通った道のそばにも小さいのがあった」

「『八つ牛の池』というのがあるの知ってる?……八つの頭の牛がそこに住んでいて、池の水が濁ると雨が降るんだって」


 旅行に行くとき、妻はいろいろと下調べをするのが好きだった。それもガイドブックを読んだりするだけではなく、地元の出版社が出しているような郷土史や民話をまとめたような地味なものまで取り寄せていたりする。

 富士山と八ヶ岳が背比べをして、負けた富士山が腹を立てて八ヶ岳の頭を叩いたからあんなギザギザの頂上になったという有名な話から始まって、いろいろと教えてくれる。


「ふうん。何だろうね。八つ頭の牛なんて、怖いようなおかしいような感じだけど。……ああそうか、八ヶ岳に雲が掛かると雨が降るってことか」

 なだらかにうねる山道をリズミカルにアクセルとブレーキを使いながら登っていくのは、頭の刺激にもなるのか、すっとそういう考えが浮かぶ。


「またそんなおもしろみをなくすようなことを言って」

 くすくす笑いながら、助手席の窓から外をまるで何かを探すように見ていた。こういう手近なところの方が気楽な旅ができるなと言いそうになって、あわてて言葉を飲み込んで、

「この辺はなんて言うか、時間の流れ方が違うような静かな雰囲気があるね」と月並みなことを言った。それには答えず、見ようによってはあでやかと言ってもいいような微笑みを浮かべていた。…


 絵のことよりこの建物の由来やどんな人間が経営しているのかといったことの方が興味があったが、おばさんは話し掛けてくるわけではないので、こちらも話しづらかった。パンフレットのようなものはないか訊いてみたが、

「そういうものは生憎ないのです。わたしも絵の解説のようなことはしないのです」と素っ気なく言われてしまい、ますます話しにくくなってしまった。


 2階も展示室になっていたが、それも義務感に近い気持ちで何とか全部目を通して、3階への階段に“Private”という札があるのを見て、やれやれ終わりかとほっとした。


「またいらしてください」とおばさんが言うのを後に外に出て門のところまで行くと、足先からまた冷気が立ち上ってきた。それに合わせるように腹が立ってきた。


全くあんな絵でけっこうなカネを取って、けしからん。パンフレットもなし、若い女もいないときている。

 一体自分は何をしているのか、あんなじいさんの話にうかうかと乗せられて。……

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