寒気が身体に沁みる
本当にここが妻の建てさせた家なのか、色んな家財道具を誰が揃えたのか。他人の家で何をしていると誰かが怒鳴り込んで来ても、ろくな反論ができないだろう。業者が帰りがけにくれた鍵を見ながら、そんなことを考えてしまった。
とりあえずテレビでも見ようかと思って見回したが、テレビはない。そう言えばまだ読んでなかった朝刊を持ってくるのも忘れてしまった。テレビも新聞もないんじゃ寂しくなるのも仕方がない。さみしいと気づかせてくれるのは妻の死より所在なさだ。
取りあえず買い物に行くことにして、念のために台所を見てみると炊飯器や食器の類いはあるが、調味料や食料などは全くない。カップラーメンやレトルトカレーでもいいがここに籠る以上、張り切って自炊すればいい暇つぶしになりそうだ。ちょっとワクワクしながら買い物メモを作る。
車を走らせて駅の方に行くと、まだ周りは田んぼなのに「楽しいお買い物」と書いた商店街のアーチがぽつんと道路の上に掛かっていた。商店街といっても開いているのかどうなのか分からないような店がほとんどで、人通りも少ない。パン屋の前で女子中学生らしいのが二人で何か飲んでいる。何かで読んだ「寝ぼけたような町」という言い方がぴったりだ。
教えてもらった店を見つけて、横の駐車場に車を止めた。入り口には使ってない鳥籠が放り出してある。自動ドアがごろごろ揺れながら開いた。建物の中にぱっとしない花屋や埃っぽい喫茶店やくすんだ洋品店が並んでいて、スーパーマーケットが隆盛を極める以前の公設市場のようだ。奥が一応スーパーのようになっていて、いかにも古そうなレジがある。カートを押しながら色々見てみると干物や塩蔵物や佃煮、業務用の大きな調味料がたくさんあって、山国なんだなという気がした。何でも揃うということはないが、独り身の中年男には十分だ。
客は主婦らしいのがちらほらいるけれど、平日の昼間に男なんかいない。妻が死んで以来、こっちは慣れてきてはいるが、向こうがどう見ているかは知らない。そうしなくてもいいのだが、わざとぶっきらぼうに買い物メモに従って放り込んでいく。
「いつもあんたはそうなんだから」
びっくりして目を挙げて、声の主を探す。ずっと向こうの牛乳やヨーグルトが並んでいる前にいるおばさんが子どもに向かって言ったと思ったが、それよりも耳のすぐ傍で、妻に言われたように聞こえた。勘違いのような気がしない。自分のどこを見てそう言ったのか。
いつもあなたはそうなんですから。よく妻はそんなふうに言っていたけれど、自分には何がそうなのかよくわからなかった。いつもっていつのことなんだ、はっきり言ってみろと追及しても、言ったためしがない。不服そうな顔をして黙っているだけだった。今だってそうだ、どういうつもりなんだ。おまえが何の相談もなく勝手に家なんか建てるから、俺はこんなところで、野菜の吟味をさせられたり、マヨネーズがどこにあるか探し回らされているんだ。ちっとも楽しいお買い物じゃない。…
「いつもあんたはそうなんだから。あたしの話なんかなんにも聴いてないじゃない」
幻聴じゃない、この壊れたようなBGMのせいだと言い聞かせながら少し立ち止まって冷蔵ケースの中を睨む。ああ、あれはそうだった。テレビのスポーツニュースで判定がもめたところをやっていたので、昼間のできごとをくだくだしく話すのを確かに聴いてはいなかったが、いきなり怒り出したのには驚いた。
「おまえの話が要領を得ないからじゃないか。だから、どうしたっていうのを先に言え」
「別にいいわよ。どうせあたしは頭が悪いし、要領も悪いわよ」
「また、そういう子どものような言い方をする。こっちは仕事で疲れてるんだ」
自分の言い方、話の打ち切り方もいかにも食わせてやっているという嫌味を含んだものであることはわかっていたし、それが妻の不満の直接ではないにせよ原因の一つであることもわかっていた。
だからと言って、労わろうという気持ちは湧いて来ない。おれは会社で出世が順調な方じゃないんだ。精神的に大変なんだ。わからないのか。そんな妻への甘えが理解のない夫を演じさせてしまい、家の中は冷え冷えとした空気が流れる。妻は黙って台所に行き、後片付けを始めた。
テレビを消し、立ち上がって、手持ち無沙汰になる。
「風呂でも入るか」
誰からも返事のないことはわかっていて、呟きに近い音量になる。…
買い物を終えてからは思い出したくないことを思い出してばかりで、火の気のない家に帰って来ると外よりも寒く感じる。頼りなさそうなガスファンヒーターとラジエーター型のオイル・ヒーターが暖房器具のすべてだ。残っても食べられるだろうと思って、ボルシチと海藻サラダを作ることにした。材料をきざんだり、煮込んだり、そういう音が響くとかえって、周りの静けさが部屋の中にしみ込んで来るようだった。
作るのも食べるのも思ったほどは楽しくない。温かいはずのボルシチが冷えた食器のせいでぬるくなっていた。いろんな食材を買ったのに早くもこんな体たらくとは。…食後にタバコを吸いに外に出てみる。体がぶるっと震える。時折、風が林を鳴らすだけで車の音などは聞こえない。すっかり暗くなって、灯りも見えないし、曇っているから月や星も見えない。都会と違って空も暗くて遠いような気がする。夏は違うのかもしれないが、冬に独りで住むようなところではないなと思った。
「寒い、寒い」と独り言を言いながら屋内に入る。風呂は湧くまでびっくりするほど時間が掛かった。風呂場は底冷えがしていつまでも床のタイルが冷たく、足を挙げたまま体を洗った。水割りを飲んでから早々にベッドにもぐり込んだ。
今日は寒いですね。エアコンも付けずに書き直しをしてたら寒気が身に沁みました。みなさんお風邪など召しませんように。