雪の中の美術館で出会う
家に戻りかけたところで、あの洋館に行ってみようと思った。もう2日も経っているけれど、大雪だったからコンサートは順延されて今日行われているかもしれない。誰が演奏するのか知らないが、スクリャービンの演奏を聴いてみたいし、妻のことでおばさんが何か思い出したかもしれない。
かもしれないなんて滅多に起こらない。確率の問題じゃなく、現実は城塞の壁のように固く、淡い期待など入り込む隙はない。
雪の中を歩いて行くのは大変だが、明日美術館が開いている時間よりは今夜の方がいいように思う。女の一人住まいかもしれないが、まだ7時にもならないから問題はないだろう。……
もう足は館に向かっていた。雲が切れかかって満月が見え隠れし始めていた。こんな夜にあのおばさんが若い美人に変わって、ピアノを弾いているなんてことはないだろうなとバカな空想が思い浮かぶ。
『一体どういうつもりなんだ。おまえが何の相談もなく勝手に家なんか建てるから、俺は雪に埋もれそうになっている。それで積年の恨みでも晴らしたつもりか?』
果てしなく長く思える雪道の真ん中で、妻に向かって悪態を吐く。
『いつもあなたはそうなんですから。あたしの話なんかどこ吹く風で』
仮想的な会話でも妻は反論する。同じような不服を申し立てる。
ほとんど腿のところまで埋まるような場所もあり、足が抜けなくなったり、倒れそうになったりして暑いのか寒いのか、わからないような状態になる。
『あの旅の間、あなたはあたしにとても気を使ってくれた。子どもができなくなったのをまるで自分の不注意のように感じていたけれど、あたしはそうは思っていなかった』
頭の中に妻の声が響いた。さっきの会話の続きのように、しかし口調がしんみりとしたものに変わっている。……
『不幸なことだけれど、いつまでも悔やんでいてもかえってあたしたちにとってよくないって感じていた。でも、そうしたことをうまく言える自信もないし、あなたからどんな言葉が返ってくるか、想像すると怖気づいてしまった』
自分の中に全くない言葉が聞こえる。寒いせいで震えが止まらない。これまで幻聴など聞こえたことはない。雪が深いと言ってもあちらに人家も見える。まさかこんなところで。逃げ出したくなる。
『あたしは臆病なんだと思う。口では言い返せないくせに、あなたが忘れてしまっていても、言われたことを引きずっていたりする。まるで子どもが引き出しの中にわけのわからないものを隠しておくように』
こいつが本当に伝えたいのは一体……。
『忘れてしまったの? 秘密なんかじゃないのにって、あたしの中の子どもは言う。あなたはあたしの中まで踏み込んできてくれなかった。ただ見ていてくれるだけでもよかったのに』
執拗な声を振り払うようにして雪をかき分け続けた。かなり時間がかかったが、何とか洋館が見えるところまで来た。仄暗い灯りがいくつかの窓に見えるだけだが、それでもないよりはいい。気持ちを奮い立たせて玄関のドアを叩いた。
しばらく応答がなく、もう一度叩こうかと思っていると、取っ手が動き、少しだけ開いた。こちらが口を開く前に、
「いつもあんたはそうなんだから」と静かな声で言う。
その声音に聞き覚えがあって、ぎょっとして思わず身を引いてしまう。この女は何者なんだ? 亡妻の霊? 自分の思念が化体した妖? お互いの狂気が見せる幻影?
取り繕おうとして、
「夜分に申し訳ありません、妻のことやスクリャービンのことが伺いたくて、明日帰るものですから」と言うと、
「どうしてわからないんですか、何度も何度も言ったのに」と言う。
ドアの向こうには誰がいるのだろう。何かが動いているような気配がある。ここは『山の美術館』というのだった。
混乱して、
「わたしも考えていたんだ、いや今度は本当に、ちゃんと何度も考えたんだ」とあらぬことを言ってしまう。相手は冷ややかに目玉を動かし、
「戻りなさい」とだけ言って、ドアが閉まった。
ドアを叩いたり、取っ手を動かそうとしたりすることも忘れて呆然としていた。一体今の会話は何だったのだろうか。ある意味救われた気がする。
青銅のドアを見つめながら、このレリーフの鳥は何だろうかという意味のない疑問が頭を巡る。しばらくすると風が出てきて、足元から冷気が這い上がってくる。折り目が伸びてしまったズボンの裾が濡れて、靴の中もじゅくじゅくしている。もう帰ろうと呟いて、池の方に歩き出した。
妻がなぜあの別荘を建てたのか。内装が偽りの灰色がかった緑に覆われているのだから考えるだけ無駄なのかもしれない。考えれば考えるだけ彼女の術中にはまっていくような気がする。
『だってこうなってるじゃないって、あたしがトランプのカードをひっくり返すと、得体の知れない表情を浮かべた絵札が現われるでしょ。でも、それは意外と単純なことなのよ』
また、声が響く。別荘に帰ればあの病院の傍に住んでいる老夫婦が掃除をしていてくれるような気がする。だって、あれは妻の思い描いた我々の将来なんだからとやっとわかる。
『クィーンなのか、エースなのか、ジョーカーなのかわからない。どれも同じような食毒不明だから、食べてみなければわからないでしょう?』
そうか。あれは確率の問題だった。妻とは高校の同級生だったから、もちろん数学の試験も一緒だった。わたし以上に数学が苦手だったけれど、そんなことを気にしている風もなかった。
とりとめのないような考えが次々と頭に浮かぶ。月に照らされて、大きな雲がいくつも流れていく。雲に見惚れて、叫び声とラッパの咆哮とともに突進する中世の騎士団のようだと思ったとき、この風景はあの絵の中に描かれていた原っぱだと気づいた。周りを見回した。
そこにあるはずの八ヶ岳がない。空と雪原が思いのほか広く、青く、目に染み込んでいく。その瞬間に意識は世界と合一し、絵の中に解消していく。……しかし、一体いつからそこにいたのだろうという訝しさが残響のように漂っていた。