大雪に埋もれそうになって“Anonym”になる
もう辺りは薄明るくなり始めていた。目を覚まさせてくれた蛇口を止めて、雨戸を開けて驚いた。
デッキが雪の壁になっていた。静止した大波のように窓に迫っている。屋根から落ちた雪が積み重なったらしい。
雪はまだ盛んに降っている。地面がせり上がって、車も半分くらい雪に埋まっていた。こんなに積もるものかとしばらく感心して見ていたが、雪に閉じ込められてしまったことに気づいた。チェーンも持っていないし、だいいち乗用車では車体の床がつっかえてとても動かせないだろう。
車のところまでだってそう簡単に行けそうにない。天気予報ぐらい聞いておくべきだった。
また布団に潜り込むと取り留めもないことを考えてしまう。……時間が心と結びつくと記憶が生まれる。でも、それが落ち着く先を見失うと深いところの水のように閉じ込められたままになる。なくなったわけでも、どこかに行ってしまったわけでもなく、いつまでもそこにあって、時には思いがけない作用を表土に与える。
そこにあるものを逆説的に“Anonym”と名付けてみよう。名前を剥ぎとられた存在。名前がないから、呼びようがない。呼びようがないから姿を現すことができない。……しかし、裏返されたこの世界ではそれらこそが生きているもので、表の名前にまみれたものたちは影のような存在にすぎない。
雪は昼頃に漸く止んだ。それまで何回か、どどーんという轟音とともに屋根から雪が落ちてきた。窓の外に雪煙が上がり、大きな雪の山ができる。こんな大きな音が夜の間も響いていたのに目が覚めなかったのかとおかしかった。これでは迂闊に外にも出られない。
いつまで閉じ込められるか、わからないので、冷凍のグラタンを食べることにして、それに蓴菜の吸い物という妙な取り合わせの昼食を済ませてから、意を決して雪かきをすることにした。工事をした作業員が置き忘れたのか、玄関のところにシャベルがあったので、それを持って外に出た。
……わたしも夢とともに裏返されてから初めて気づいた。お互い名乗ったはずの業者も、他の誰も名前では呼ばれず、つまりは“Anonym”だ。始めからそういう奇妙な世界に閉じ込められていたのだ。
いつから?
わからない。少なくともここに来てから。むしろ妻が死んでから?
ひょっとすると妻とともにこの土地を訪れたずっと昔から?
しかし、今それを掘り当てることはむずかしいだろう。風が作り出す流れる雲や揺らぐ木々の音が邪魔だ。池に映る空や山や舞い落ちる葉の色は雪が埋め尽くしてしまった。
いたずらに湿った時間が堆積していく。あまりの雪の量にため息が出る。
見上げると屋根の上の雪はかなり落ちたらしくとりあえず安全なようだ。空を覆う木々の枝にはそれほど雪は積もっていない、軽い粉雪なのだろう。
車までの道を作ろうと始めたが、腰でも痛めたら大変だと思ってそろそろやっているので、なかなか捗らない。雪は軽いだけに形がすぐ崩れてシャベルにうまく乗らない。
20分ほど経つと汗が吹き出し、コートも脱いでしまう。靴の中に雪が入ってきて爪先が冷たく、つらい。雪の上には猫だか鼬だかが歩いたらしく、小さな足跡がある。空はまだ薄曇りで時々雪がちらつく。
その後も頑張って、1時間半ほどかかって車まで5メートル足らずの細い道がやっとできた。車の上の雪を除けてみるとフロントグラスに青い氷が張っている。家に引き揚げて濡れた服を着替えて一息つくと、身体の節々がきしんでこれ以上雪かきをする意欲がなくなってしまった。
何とかしてもらおうと業者に電話したが、留守番電話になっていた。助けてくれと言いたいのを抑えて、状況を説明し、電話をしてくれと吹き込んでおいた。
暗くなってから業者の男から電話がかかってきた。
「ああ、まだ居られたんですか」と言われてしまった。
「いやもうあちこちで雪に埋まっちゃった人がいて、今日は一日その掘り出しに追われててね。こんな雪はここ25年来初めてですよ。明日行きますから無理しないでじっとしててください。夕方になってしまうかもしれないけど、食料とか水は大丈夫なんでしょう?」
少し興奮したような、優越感に浸っているような言い方だった。
気づくべきだったとするならばあの電話のときからそうだった。要領を得ない、しかし引き寄せようとする電話。理解を求め、待ち続けた妻は間違っていたのだろうか。
理解されることを拒否し、青い謎をかけてしまえば人は躍起になって自ら暗い森に入り込んでいく。忘れないでと言えば忘れられる。最後になってそれに気づき、心に偽りという緑の壁紙を張る。
言われたとおり翌日の夕方までじっとしていた。妻の出した謎を解こうとしていたと言えば話は簡単だが、元々そんなものがあるのかどうかもわからない。寒い戸外へ出たり入ったり、壁をにらんだり、膨大な雪と時間に埋もれそうになっていたのだった。……
本当に来るのか、信じないような気分になった頃、大きな排気音がして、業者がやって来た。車のところまで出て背伸びするようにして見ると、ブルドーザーが頼もしい狂暴な音を立てて雪と格闘しながら、徐々に近づいてきた。
雪の山が動いては崩れていく。時々もう一人の男がブルドーザーから降りて、シャベルで排土板に引っ掛かった雪を除けている。
この世界には音はなく、色だけがある。川のように流れる時間はなく、白く鈍く凍った池の底で静かに揺れているだけだ。
……池の畔で、『ずっと弾いてないから、指が回るかな。目にも留まらないほど早く』と妻が言いながら廃校にある、どこかあの器械に似たオルガンを弾く。
あたたかい春の雨が降り、池がぬるむと八つの頭の牛が現われる。固まった血のような色の夕陽に照らされて、カリフラワーのような頭が赤黒く光っている。わたしはそのあちこちを向いた目玉がちゃんと揃っているか数え始める。
ずいぶんと暗くなって漸く車の前まで雪を踏み固めた道ができた。
「まあ、これ以上降らなければ大丈夫だね」
「いや助かりました。春まで出られないかと思った」
「はは、表の道は除雪されてますし、中央道も明日には復旧するでしょう」
「でもチェーンがないんですが」
「うーん、どこも全部売り切れたらしいしな」
困った顔をしていると、
「明日帰るならこの車を表まで引っ張って行きましょうか」と言う。
こんなところでうろうろしていてまた雪が降りでもしたら大変だと思い、そうしてもらうことにした。
ワイヤーで繋いでもらう。車に乗っておそるおそる運転してみると、繋がれているのに、何度も横滑りしたり、わずかな下り坂でブレーキが効かなくなったりして、その度にもう一人の男に助けられた。夜になって表面が凍り始めているらしい。
難渋しながら除雪された道路まで運ぶことができた。
「明日は晴れそうですが、夏タイヤなんだから昼間でもアイスバーンになっていないか十分確かめて、無理しないで」
そう念を押して、業者はブルドーザーを停めてあったトラックに積んで帰って行った。その尾灯を見送りながら、水道栓のことは言わなかったが、やはり明日帰るときには赤、青の順に閉めておくべきなのだろうかと思った。