2.協力願い(2)
まずは一つでもいい、完璧に整えてこれ以降汚させない場所を作る。それを足がかりにして、散らかさない領域を家全体まで広げていくことにする。
そして第一歩におあつらえ向きなのが、使用人である私がこの先受け持つ領分、台所だ。
まずは吊るし棚に積もったほこりを払い落とし、昨日磨いて乾かしておいた鍋をそこにしまう。
問題はここからだ。
私は今一度調理台の周りを見渡した。
流し台には水垢や汚れがこびりついている。掃除とはいえ触れるのにも気が引けるありさまだ。きっと長いこと洗い物を放置していたからだろう。
というか、水場が汚れだしたから食器の片づけが億劫になった可能性もある。見て見ぬふりをしたくていつしか台所から遠ざかる、ありそうな話だ。気持ちは分かる。目を背けたい箇所が一つあるだけで急に手が動かなくなるものだ。
とはいえ私は掃除のために雇われた身、腰が引けている場合ではない。
流しを支える木製の足にはたわしが掛けてあったので、それでこすることにした。昨夜鍋の焦げを落としたものである。
井戸から汲んできた水を流しに張り、石鹸を振り入れ、いざたわしを構えて水の中に手を突っ込んだ。
陶器の流しがぬめる。
意識が遠のきかけた。
慌てて気を持ち直し、ぬめりの少なそうな側面からこすっていく。
栓を抜いて洗い流すと流し台の下に設置してある桶に水がたまるので、外に捨てて、今度はその桶も磨く。
一連の作業を片付けるコツはとにかく無心になって一気に終わらせることだ。ぬめぬめするけど気にしない。しぶきが跳ねるのも気にしない。「手と服は洗えばきれいになる」と自分に言い聞かせ、息を止めてとにかくこする。
努力の甲斐はあり、流し台周りは十分衛生的になった。
「……きれいになった……!」
自画自賛だが、自分の手で磨き終えた場所を見るのはいつも気分がいい。この家については元が元だから特に。
一人仕事の出来栄えに納得しうんうん頷いていると、背後で扉の開く音がした。
「ラーヴァさん。もう起きていたのか」
サルヴィエはあくびをしながら声をかけてきた。もう時刻は昼にさしかかる頃だ。
私はぱっと振り返った。
本で溢れかえった室内がありありと目に入った。
そうだった。忘れてた。
とたんにくじけそうな気持ちを達成感でどうにか持ち上げ、私は挨拶する。
「おはようございます。いつもこの時間なんですか」
「まちまち」
サルヴィエは台所の変貌に気づいたらしい。私を通り越して流し台を覗き込み、声を上げる。
「おお、仕事が早い」
言葉は少ないうえ淡々としていたが、声音から褒められたのだと分かった。
私に全て任せるという昨日の言葉から細部に関心はないのだろうと思っていたから、彼の言葉は意外だった。言葉にして認められるのはうれしい。
私は掃除道具を片付けて訊ねる。
「すぐに食事にしますか?」
「そうしよう」
まだ料理をするほどに片付いたわけではないのと、今から準備すると遅くなるので、昼食は硬く焼しめた貯蔵品の菓子と瓶入りの果実水で流し込むように済ませることにする。
サルヴィエは本当に一つも文句を言わず焼き菓子をかじっていた。
簡単な食事はすぐに終わった。
「今日からさっそく片付けを始めたいと思うんですが……」
私は食後の水を二人分のコップに注いでからもう一度席につき、片付けについての話題を切り出した。食後のお茶ではない。水である。まだお湯を沸かす炉が掃除できていないのである。
「まず食堂を全部片付けようと思っていて。サルヴィエさんにも協力してもらいたいんです」
「……そうか。僕にできることがあるとも思えないが、それでよければ」
「サルヴィエさんにしかできないことです」
私は強く説き伏せつつ、足元にちらりと目を走らせる。サルヴィエも同じように部屋の中をぐるりと見渡した。
頼みたいのは食堂を占拠する品物のことだ。
テーブル周りには座れるだけの余裕は作ってあるが、少し視線を動かせば壁際は物の山積みだ。それらは全てサルヴィエの私物である。
食堂の中でも台所の設備から手を付けたのは家政婦の領分であり好きなように動けるからだったが、それだけじゃない。それ以外の場所に手を付けかねたからだ。
掃除は汚れを落とす作業だ。
だけど頼まれたのはそれだけじゃない。しまいきれないものであふれかえったこの家をすっかり片付けるのが私の役割である。
片付けるには物を適切にしまったり、捨てたりする必要がある。
だけどこの家の品物は家主の財産であり、サルヴィエにしか判断できない。
そしてこの食堂にはそんな品物が山のようにある。
「台所の物じゃない物はお部屋に持ち帰ってほしいんです。どうでしょう?」
私はサルヴィエの顔色をうかがいながら申し入れた。
もしここで「いやこれは全部台所に置く物だ」と言われてしまったらもうどうしようもない。けれどサルヴィエはわざわざ掃除婦を雇うくらいだ、家をきれいにしたいのなら拒否はすまいと踏んでいた。
サルヴィエはたっぷり考えてから顔を上げて口を開いた。
「……台所の物とそうじゃない物とは?」
そこからか。
初手で問い返されるとは思っていなかったので私は動揺した。どう言ったものか悩み、結局そのままかみくだいて繰り返す。
「『台所で使う物』と『お部屋で使う物』と分けて、それぞれ置き場を決めるんです」
極端な例えだが、もし食器棚を寝室に置くと決めたりしたら、料理をするときに不便でしょうがないだろう。台所で作った料理をその場ですぐに皿に盛れないのだから。そのうち料理のたびに寝室と台所を行き来するのが面倒になって、やがて皿を台所に置くようになる。しかし台所には棚がないので皿は適当な場所に積んでおくしかない。つまり、元々の置き場とずれる。それが散らかるということだ。
世間の家庭ではそうならないように、初めから食器は台所に置くと決めておくものだ。使う物は使う場所に置く。それが一番効率的なのだ。
「定位置ははっきりさせておいた方がずっと散らかりにくいんですよ」
サルヴィエはさらに聞いてこようとはせず、ただ黙ってしまった。まだぴんときていない様子だ。これはやって見せた方が早いだろう。
食器を流し台によけつつ提案してみる。
「とりあえず本以外のものをテーブルにまとめてみませんか。分かる範囲だけでも」
私は腰を屈め、足元に転がっていた保存瓶を二本拾ってテーブルに置いて見せる。サルヴィエもつられて動き出した。