番外.料理修行準備(後)
トレザ女史の見つけ出してくれた本は、専門職でない私にも分かりやすそうなものだった。私が棚から持ってきたものと並べて見比べながら相談する。
「さてと、料理本って言うから一通り持ってきたけどね、どんなのが必要なんだい」
「ええと……今の台所と身近な材料でできるようなのがあればいいんですが」
「料理人に転向するわけじゃないんだね。料理人見習いが参考にするような手引書もあるけど」
宴席料理の本を見せられて慌てて手を振る。宮廷や高級店で作られるような料理、手間も材料費もばかにならない。
「そこまでたいそうな物じゃなくていいんです! ただ毎日の食事に彩りを添えたいなってくらいで」
「サルヴィエのために?」
思いがけない砲撃を食らって私は目をむいた。
「そ、そういうんじゃなくて……!」
「おや、あの家で作るのかと思ったけど」
それはそうなのだけど違う。
私はカウンターに半分身を乗り出して弁解する。
「私がおいしいものを食べたいのと、いつまでも素人料理じゃ申し訳ないってだけで、サルヴィエさんのためってわけじゃ」
「それは相手のためと一緒じゃないのかい」
スパッと切り返されてぐっと言葉に詰まる。
確かにサルヴィエに美味しいものを食べさせたいというのもあるけれど、サルヴィエのためと言うのはちょっと後ろめたかった。だって作りたいのは私の勝手なのだ。第一こうやってこそこそ本人から逃げ隠れしておいて彼のためも何もあったものではない。
「まあ理由は個人の勝手だけれど。精々あのひ弱い学者に栄養摂らせてやっとくれ」
トレザ女史はさっさと納得してしまって、私は弁解しきれないまま釈然としない気持ちが宙づりになった。多分この人は照れ隠しか何かだと思っている。
半分やけっぱちになり、私は本の中から好みと直感だけで一冊の指南書を選び取った。家庭料理の本で、馴染みのない道具や材料を使わないのがよかった。
一息ついてしげしげと料理本の表紙を眺める。色々変な方に悩みもしたが、なんだかんだで良い本を選べてよかった。
店主に会計をお願いしようとしたその時、ふいに扉が開いた。とっさにそちらに目が行く。
そこに居たのはサルヴィエだった。
私は顔だけ入り口を向いたまま固まった。
「ど、どうして?」
工房街に行ったはずでは。ほかに用事がないのならしばらくは友人の元にいるだろうと思ったのに。
サルヴィエは長身に似合わず頼りなげに眉根を寄せた。
「用事がもう済んで、君は時間がかかると言うからここで待とうと……不都合あっただろうか」
「文字狂いって奴は時間をつぶすとなるとまず本屋に向かうものなんだよ」
トレザ女史がそう教えてくれる。そういうものか。がっくりと気が抜けてしまった。研究家の生態を甘く見ていた。
サルヴィエの視線が私を通りすぎてカウンターの上に止まる。そこには料理本が数冊無造作に投げ出されている。サルヴィエはそれが何なのか察したと見えて気まずそうに目をそらした。こそこそしていたのを察してくれたのだろう。ありがとうございます。でももう遅いです。
トレザ女史は据わった目で私をじろりと見上げた。
「で、買っていくのかい」
「いただきます……」
一冊の本を受け取り、会話もそこそこに店を出て、そろって街路を歩く。
サルヴィエは何も聞いてこない。沈黙に耐え切れなくなって、私はたまらず口を開いた。
「料理の本を探してたんです、その、新しい調理法を覚えるために」
サルヴィエの返事が来なくても構わず一方的に説明する。あちらが訊いてこないので、私の方から話すしかない。自然いいわけがましくなる。
「朝ごはんがてら練習するので食材を無駄にするつもりはなくて、足が出る分はお給金から出すつもりで」
「では、どうしてわざわざ隠れて?」
痛いところだ。
練習を知られるのがいたたまれない。気を使わせたくないし顔色をうかがいたくない。理由はいくらでもある。
けれど一番は、私の気まずさだった。
本を抱いた腕に力がこもる。
「……だって、あなたには本を減らすように言っておいて、自分はこっそり買うなんて、不公平じゃないですか」
先日までの片づけで、私はサルヴィエに本を整理するよう説得した。そして彼は実際に蔵書の一部を手放した。その間に長い葛藤があったことを私は知っている。
それなのに自分は自分のために簡単に本を買う。それが恥ずかしくて、何か言われるんじゃないかと思って、ばれたくなかった。
もう観念するしかない。同じ家の中で隠し事をする方が無謀だったのだ。そうは分かっていても、思い描いていた計画が崩れた今、気分はすねた子どものようだった。
サルヴィエは密やかに笑った。声を出さず、吐息を微かに揺らすだけの笑いだ。
「君はそんなことを気にして?」
「う……」
顔が熱い。赤くなっているのを感じる。人が真剣に後ろめたく思っていたのをそんな風に軽く笑われては、身のおきどころがないではないか。怒る気力もわかなくて弱々しく抗弁する。
「そんなことでも隠したかったんです……」
「すまない」
「謝らないでください……」
「とにかく、君が買うのを止める権利は僕にはない」
分かっている。財布は自分で出しているし、サルヴィエは雇い主ではあっても口を出す人ではない。だからこれはただの私の意地だ。
それにとサルヴィエは付け加える。
「僕は買いたくなったら買う」
「…………」
あまりにも説得力があってうなずいてしまった。そうか。そうかも。そうに違いない。
なんだか急にどうでもよくなって、張りつめていた気持ちが和らいでしまった。無性におかしくて自然と笑ってしまう。私はしばらくぶりにサルヴィエの顔をしっかりと見上げた。
「隠し事してすみませんでした」
「いいや。したいのならいつでもするといい」
その言い草にまた笑ってしまう。
何か言われるんじゃないかとずっとどこかで思っていたけれど、警戒しすぎていたのかもしれない。きっと私はまだサルヴィエのことをちゃんと知っていないのだろう。
使用人ではあっても好きにしていい。当たり前のことでもそれをはっきり口にしてくれるこの人は、私にとって良い雇い主で、栄養のある食事を食べさせたい人だ。
「じゃあ今度、上手く作れるようになったらお出しします」
笑ったままそう言うとサルヴィエは不思議そうにした。
「今日作るわけじゃないのか」
「それはできませんよ、何度か試作してみないと」
ぶっつけ本番で雇い主に食べさせるのは怖い。思いきり鍋を焦がして「やっぱり今日の夕食はビスケットと水で」なんてことになりそうだ。
サルヴィエは眉根をひそめて見せる。
「自分だけで食べるつもりだったのか?」
「う、それは、一人分から練習するつもりで……!」
「冗談だ。二人分作る練習がいるだろう」
サルヴィエは当たり前のように変わらぬ声音で言う。この人の冗談は分かりづらい。
慣れてきたら今度は二人分作る練習をしなくちゃならない。言われてみると、それは確かにそうだった。
「……上手くいかなくても、頑張って食べてくださいね」
「うん」
そして示し合わせるでもなく、足どりは自然と食料品店の方に向かうのだった。