12.片付けの終わり(1)
チッカが森の小屋を訪れたのはそんな折のことだった。
連絡も何もなかったので私は驚いて訊ねた。
「もう完成したんですか?」
「おあいにく様、もうしばらくかかるよ。今日は最終調整のための実地調査」
チッカは肩をすくめてみせた。小型の道具箱を指先に引っかけてぶらぶらと遊ばせている。
棚の製作を頼んでからというもの、チッカはたまにこうして森にやって来る。棚の設置予定場所の寸法や扉の幅などを測り直すためらしい。
チッカを引き入れた後、台所の片付けものをしていると、それまで自室にいたサルヴィエが入れ替わりに食堂を訪れた。
「お疲れ様です。休憩ですか?」
「気が散ったから一区切りつけてきた。火を入れるからお茶を頼めるか」
「分かりました!」
食事の席で失敗したあの時から今まで、少なくとも表面上は上手くやれていた。サルヴィエの方がどう思っているかまでは分からない。
そうしていると、それほど時間はかからずにチッカも書斎を出てきた。
「終わったよー。お茶すんの? 交ぜてよ」
お客様をそのまま帰すわけにはいかない。食堂にちゃんとした椅子は二脚しかないもので、チッカには普段私が座っている席を勧めた。
食器棚から炉へと行き来しながら立ち働いていると、チッカは椅子の背もたれ越しに、私にしか聞こえない声で囁きかけてきた。
「どーよラーヴァちゃん。言えた?」
チッカにはサルヴィエの家でのことについて相談していた。そのことだろう。気にしていてくれたようだ。
私も声を殺して答える。
「それが、まだ何も聞けてないんです。機会を逃し続けちゃって」
「あらら」
「聞かなくちゃいけないことは分かってるんですけど……」
相談に乗ってもらっておきながらこのざまで申し訳ない。
火にかけていた鉄瓶がしゅんしゅんと湯気を立てて鳴り出した。食器棚から取り出したカップにお湯を注ぐ。用意を続けながら私たちはひそひそと話す。本人の鎮座する真ん前で噂話など無謀もいいところだが、茶器の立てる音がうまく言葉をかき消してくれていた。
「で、サルヴィエの方も何も言ってこない、と」
「そうなんです」
様子を気にかけてくれてはいるのだけれど、肝心の私の処遇についてはあちらから切り出す気配はない。
チッカがいっそう声を落として言う。
「なんなら俺から言ってもいいけど。言おうか?」
「いやいやさすがにそこまでしてもらうわけには……!」
「でも俺も無関係じゃないしさ」
「何に」
「わああ」
耳元で急に低い声がして腰を抜かしかけた。
席に大人しくついていると思われたサルヴィエは、いつのまにかすぐそばまで近づいてきていた。驚いて私だけ無遠慮な悲鳴を上げてしまった。
チッカだけが何食わぬ様子で明るく笑う。
「あはは、話聞こえた?」
「聞こえていないから訊いている」
サルヴィエはいつにもまして難しい顔をした。いや、正直なところ常に難しい顔と言えば難しい顔なので違いが分かるわけではないのだが、それでも何となくまとう雰囲気が一段と物々しい。
「じゃあ俺たちの内緒話が気になったんだ」
チッカがそれとなく話をはぐらかそうとするのでますますサルヴィエの顔の陰は色濃くなった。気がした。
チッカはというとこんな時でもいつものニコニコ顔だ。なんなら楽しそうですらある。心臓が鋼鉄だ。
笑い顔としかめ面に挟まれる空気に耐え切れず、私は声を上げた。
「お茶の用意ができました! 席にお座りください!」
……と、大の男二人をむりやり席につかせてはみたものの、早まったかもしれない。
「――で、その国境の問屋から良い布たくさん仕入れてさ」
「………………」
「東国の布って色づかいが変わってて丈夫でいろいろ使えそうなんだよね」
サルヴィエはテーブル上で手を組んで微動だにせず気難しさの権化みたいな面相をしている。一方でチッカは笑顔で一人ぺらぺらと喋りたおしていた。どういう気持ちなんだろう。むしろこの人が怖くなってきた。
私も予備の小椅子に腰かけていっしょに食卓を囲んではいるが、この状況で和やかな会話に花を咲かせられるほど肝は据わっていない。旧知の友人同士ではおなじみのノリかもしれないと思うと下手に割って入ることもできないし。
「なんか作る予定ない? 格安にしとくよ、二人掛けの椅子とか」
「いらない」
けんもほろろだ。
もう長引かず速やかに解散してほしいのでお茶のおかわりいかがですかとうかつに勧めることもできないが、そうするとさりげなく席を立って背を向けることもできなくなる。究極の選択だ。できることがなにもない。早く終われと待つばかりである。
私はすがらんばかりにサルヴィエの様子を盗み見た。
サルヴィエはチッカに真っすぐ顔を向けていて、お開きにしようとかいう意思は感じられない。私の視線にも気づいていなさそうだ。
こうして改めて見てみると、サルヴィエはなかなかきれいだ。役者や貴族のような華があるというのではないけれど、切れ長の目が学者らしい知的さで、深い青緑色の瞳がそこにかすかな彩りを添える。気難しい表情も寡黙な年長者らしさを増している。
しかし一歩間違うとそれが迫力に直結するので怖い。チッカと話している横顔も、真剣に聞いているんだか凄んでいるんだか区別がつきかねる。
……そうして観察していると、ふと目が合ってしまった。
注目しすぎて気付かれたのかもしれない。気恥ずかしくてすぐにそらそうとしたが、意に反してそれはできなかった。
――サルヴィエの表情はいつも難しい。だからこれも私のとらえ方の問題なのかもしれない。ただ眠気や瞬きに目を眇めた一瞬をそれと勘違いしただけかもしれない。でなければ私の後ろめたさがそう見せたのかも。
サルヴィエの青緑の瞳は湖水のように凪いだ色をしている。
その静かな目が、もの言いたげに私をじっと見ていた。まるで懇願するかのように、あるいは恨みでもあるかのように。
私はその視線に縫いとめられて息を呑む。それはどういう感情だ。答えを知っていいのか分からず、ただ見つめ返すしかなかった。
「なにやってんのさ二人して見つめあっちゃって」
チッカに言われて我に返った。
気づけばチッカがテーブルの上に半分身を乗り出して、私とサルヴィエの間にひらひらと手を振っていた。
サルヴィエはというと、いつの間にやらいつも通りの無表情に戻っていた。何事もなかったかのように食卓に手を付き座っている。
チッカは座ったまま身体を傾げ、私の耳に顔を近づけてひそひそと話しかけてきた。彼はサルヴィエより私と身長が近いので内緒話がしやすい。
「ラーヴァちゃん、サルヴィエと付き合ってたりする?」
「ち、違います……」
前も聞かれた気がするけれど無実だ。そりゃ同じ屋根の下ではあるけれど、一階と屋根裏部屋は言葉以上の距離があるので実質別居である。なるべくならいかがわしい言い方はしないでいただきたい。
チッカはサルヴィエの様子をうかがいながらふうんと呟いた。
そして笑った。隠してあったお菓子を見つけたいたずらっ子のように。
「ラーヴァちゃん」
「はい」
「俺は今からサルヴィエをおちょくる」
「はい?」
私が聞き返すよりも早くチッカは私の肩をぐいと荒っぽく引き寄せた。身体がぐらりと揺れて、うっかり彼の太ももの上に手を付いてしまう。
「うわすみません、じゃなくて、えっ何ですか!?」
「まぁまぁ適当に返事して!」
チッカは早口にそう囁くと、ぱっと顔を上げて声を張り上げた。
「それでさ、今度うちに来る話、考えてくれた?」
私はまだサルヴィエに打ち明けられていない話を大っぴらに出されてぎょっとした。何を言い出すんだ。
「また一人で街に出てきた時にでも寄ってよ。それでゆっくり相談しよ」
「えっその、え? チッカさん?」
チッカの声色は元より親密だが、今はこれまでにないくらい距離が近い。なんでだ。緊張で肩が強張ってどうしていいか全く分からない。
そして動けないのでサルヴィエの反応を見ることもできない。チッカは「おちょくる」と言ったけれどあれはどういうことだったんだろう。サルヴィエはどんな顔をしているのだろうか。
私が何もできずにいると、視界の端でサルヴィエの動く気配があった。
それからすぐにぐいと両肩をひっぱられた。重心が揺らいで身体が強ばったがすぐに背中を受け止められる。背後に体温を感じた。
真上で低い声が言う。
「うちのお手伝いに変なちょっかいをかけるんじゃない」
気付けば私は、椅子の背もたれを挟んでサルヴィエに肩を抱かれる格好になっていた。サルヴィエに助け起こされた、というか引きはがされたのだと遅れて理解した。
両肩を掴む手は未だ離れない。こうなったはこうなったで動けない。頭が真っ白になった。