11.ラーヴァ悩む(1)
「……それで、昨日はサルヴィエさんに洗濯に使うお湯を沸かしてもらって」
「あいつそういうの嫌がらずにやるからいいよねぇ」
町の工房街は今日も職人たちの活気で賑わしい。石畳の敷かれた狭い路地に、金づちを打ったり木を切ったりする音や人の笑い声が響き渡っている。窯を焚いている工房もあるのか小路全体にどことなく熱気を感じる。
私は立ち並ぶ軒の一角、家具工房を訪れてチッカと話していた。
町に買い出しに来たついでにチッカの工房に寄るのはすっかり習慣になっていた。
よそから移って来た私にはこの町での知り合いがほとんどいない。そういう事情を差し引いてもチッカは話しやすい相手だ。こざっぱりした性格でてらいがなく、少々あけすけな所もあるが気楽に話せる。
今日はサルヴィエに付き添いを頼んでいなかったため私一人だが、パン屋や食品店を巡った帰りに顔を出してみることにしたのだ。棚の出来の進み具合を確かめるついでだ。
前触れもなく訪れた私を、あの明るい職人は気安く歓迎してくれた。作業中だったようなのだが店先の椅子をすすめててくれて、そのまま雑談の流れになった。
自然共通の話題であるサルヴィエのことを話すことが多くなる。
「もうほとんど片付いてるんです。棚が完成したらそれで完了ってくらいで」
「へーえいまだに信じらんないな、あの家が片付くなんてさ、あはは」
チッカはあれから二度ほど森の家を訪れているが、来るたび家の変わり具合を新鮮に珍しがっている。私も自分で片付けた場所を何度も見ては満足感に浮足立っているので、人のことは言えない。
私がサルヴィエの元に来た当初と比べると、家の中は様変わりした。
最初の頃、あの家は本や服、がらくたにあふれて足の踏み場もないほどだった。それが今ではひろびろとして楽に動けるようになり、床はほこり一つ落ちていないくらいまで磨けるようになった。食堂をとっても、もう床に本が積まれるようなことはなく、食べ終わった皿が山積みになることもない。流し台や炉もまめに掃除できている。時には窓辺に花を飾ることもあり、居心地のいい空間になったんじゃないかと思う。
そのおかげもあってか、最近ではサルヴィエは部屋から出て過ごす時間が増えた。
元々机に向かっている時間が長い人だから割合で言えばほんのわずかな変化だけど、新たな習慣を身につけたと考えるとそれは大きな進歩だった。食事の時間にはちゃんと出てきているし、お茶を飲みに食堂に来てくつろぐ時間も増えた。いい傾向だと私は思う。それに掃除婦として、自分の努力が家主が食堂でくつろぐための一助となっているのなら嬉しい。
……頼んだ棚がまだ届かなくて片付けが完了せず、自室にいても落ち着かないというのも、理由の一つなんだろうけど。
彼の書斎の片付けは、家具工房に頼んだ本棚が納入されるまで一時中断となっている。
新しい棚が完成してきて、残りの本をしまうことができたら、森の家の片付けは晴れて完了だ。
チッカはへえと軽い相づちに続けて言う。
「それじゃあラーヴァちゃんの仕事も終わりなんだ」
私は思わずチッカを見つめ返した。
「ん?」
「え、だってラーヴァちゃんってサルヴィエん家片付けるために呼ばれたんでしょ。それって片付けが終わるまでの約束だったんじゃないの?」
片付けが終わる。つまり、私が雇われた理由がなくなる。
ということは、サルヴィエの家を出て行くように言われるかもしれないということ。
「あー……俺言っちゃいけないこと言った?」
チッカはばつ悪げに笑う。私は答えるどころではなく、ただ返事にならない心の声が漏れる。
「ど……」
どうしよう。
そうだった。これまでサルヴィエの家の片付けに全力で、考える暇がなかったために忘れていた。だけど片付けは終われば私が雇われた最大の理由がなくなるのだ。そろそろ自分の身の振り方も考えなくてはならなかった。もう猶予がない。とたんに焦ってくる。
「サルヴィエとは何も話してない?」
「それが何も……」
「なら大丈夫だとは思うけどねー」
その手の会話は一度もしていない。何事もなく続けられる可能性はある。
だけどどう転ぶにしても一回は話し合ってみないと駄目だった。もし契約終了するのなら、いつまでいられるかとか、新しいお家への紹介状を書いてもらったりとか、サルヴィエの意向は確認しなくてはいけない。
先ほどまで和やかに談笑していたのも一転、頭の中が目まぐるしく空回りする。
そんな私を見ていたチッカが何気なしに言った。
「もしあいつん家が無理そうだったらうちに来てもいいよ」
「うち?」
私は思わずチッカの言葉を復唱した。人好きのするつぶらな目には冗談を言っている気配はない。彼は切り揃えた髪を揺らして笑う。
「うち、親父と二人でやってんだけどさ。お客の相手もしなきゃなんないし、家の中のこともあるし、人手があると楽だなーって。ラーヴァちゃんならそのへん大丈夫そうじゃん」
よく聞いてみるとちゃんとした理由だった。単なるなぐさめかと思ったけれど、そういう話ではなさそうだ。
「そんなに出せないかもしれないけど無料の仮住まいと思って考えといてよ」
チッカは愉快そうに口角を持ち上げた。彼の子供めいた表情は私より年上なのにあどけなくすら見える。その笑顔に嘘偽りはない。
確かにチッカはサルヴィエの友人だし、ここ数か月で人となりを知っている。まったく気心の知れない人のところよりかはずっと安心だ。そう考えると願ってもない条件だった。親身に相談に乗ってもらった上にそこまでしてもらえるのはとてもありがたい。
「まあとにかく、一回サルヴィエとは話してみるといいよ」
「そうですね……そうします。ありがとうございます」
軽い調子でひらひら手を振るチッカに送り出されて、私は街の家具工房を後にした。
帰路につき、歩きながら考える。一時は動転したものの、チッカに話せたことでだいぶ気持ちは上向きになっていた。
サルヴィエはあまり言葉で語らない。考えを言葉にしようとしない。
旧知の友人であるというチッカの評は的を射ているのだろう。サルヴィエは確かに口数が少ない。もちろん私から声をかけた時には受け応えてくれるけれど、それ以外で自分から喋ることはあまりない。
だからあの人が私の処遇について話さないのも、別に悪気だとか、後ろめたさあってのことじゃない。
そうと決まれば早くサルヴィエと話をして白黒つけてしまおう。野道を行く足どりは自ずと速まる。きっと彼は冷静に相談に乗ってくれるはずだ。
農園を抜け、麦畑にさしかかり、森の入り口に至る。すっかり見慣れた小径に分け入り、まもなくサルヴィエの家にたどり着いた。
勝手口から家に入ると、サルヴィエは食堂でひとり茶をすすっていた。部屋にいると思っていたのでたじろぐ。
彼は扉の開く音に気づいてすぐに顔を上げた。
「おかえり。任せきりですまない」
「いえ! 町に行くのも楽しいので」
少し緊張していたつもりだったのだが、思っていたよりも上手く話せる。サルヴィエとの和やかな会話にほっとした。これなら例の用件も気楽に切り出せそうだ。
買ってきた食べ物をいったん調理台に置き、私はサルヴィエに切り出した。
「ところでサルヴィエさん、訊きたかったことがあるんですが」
「どうかしたのか?」
サルヴィエはカップをテーブルに戻して真面目な口調で聞き返してくる。
私が話をするとき、彼は聞き流さずにちゃんと聞こうとしてくれる。取るに足らない雑談でも、今のように真剣な話でも。単なる使用人でなく一人の同居人として尊重してくれる。それは恵まれたことだ。
そんなことにささやかな幸せを感じながら、私は言葉を選ぼうとする。
だが、続く言葉が出てこない。
とっさに体が固まった。
サルヴィエは何も言わずにこちらの言葉を待っている。
「……あー……歩いているうちに本題を忘れちゃったみたいです。すみません!」
「そうか」
笑いながらとっさにごまかした私の言葉をサルヴィエは不審に思わなかったらしい。
「思い出すまで待とうか」
「い、いえ、これはちょっと引っ張り出すのに時間がかかると思うので!」
分かったとうなずいてサルヴィエはカップの底に残った茶を飲み干し、席を立つ。
「僕はこれからしばらく部屋にこもるから、用はまた夕食のときにでもお願いするよ」
分かりましたと承諾して、私は自室に戻っていくサルヴィエの背中を見送った。
何でもないように振る舞ったつもりだけれど、頭の中には疑問符がいっぱいに浮かんでいた。心なしか脈が速い。ぽろりと独り言がこぼれる。
「どうして言えなかったんだろう?」
まるで知らない場所に来たように、私は一人になった台所に立ち尽くした。