10.理想の家(2)
サルヴィエは自分でも無意識に、家が片付くのを厭っていた。
それはもうずっと前、彼が幼い頃、魔術の暴発で損壊させてしまった生家を思い出してしまうからだった。
その暖かさも、それを自分自身の力で壊してしまったことも。
話しているうちに風はすっかり収まっていた。
私たち二人は口をつぐんだまま、示し合わせたでもなく共に勝手口から屋内に引き上げる。
灯りの消えた食堂に戻るとサルヴィエは炉に火を入れてくれた。ぱちぱちと音を立てて燃えるかまどを眺め、お湯が沸くのを待つ。
二人分のカップにお茶を注ぎ、テーブルを挟んで座る。
「最初に暴発が起きた時、殴られたように脳が揺すぶられた」
腰を落ち着けてから、サルヴィエは再び語り始めた。
お茶に手を付けもせずテーブルの上に手を組んで、琥珀色の水面にじっと視線を落としている。
「あの時、よりどころにすがる権利を自ら失ったのだと子供心に悟った」
そして幼かったサルヴィエは、魔術の修練を名目に家族のもとを去ったのだという。その別れが強いられたものなのか自発的なものなのかは想像するしかできない。
幼い子供が自分は守られるに値しないのだと思い込まざるを得なかった。その心境を想像して胸が痛む。
「その後、修行の師の元や学院の寮を転々として、研究に集中するためこの家に移った。家に期待していたわけではない。だが住み始めると存外居心地がよくて……だからこそ昔の家のことがよみがえった」
生家での事故。
一度は自分と家族の居場所をその手で壊した。自覚があるからこそ次が起こらないことを証明できないし、もう大丈夫だと言い訳することもできない。同じ痛みを繰り返すならば、いっそ愛着なんて持たない方がいい。
聞くごとにサルヴィエの心情がより鮮明になる。
サルヴィエはただ嫌な思い出を忘れたいというだけではなかったんだ。
彼にとって魔術の暴発は忘れられない現実で、それは彼の居場所と強く結びついている。だから気が休まる我が家という場所が、魔術の暴発の可能性を思い出させる。
また壊すかもしれないと思えば愛着を持つこともできない。愛着を持てば暴発を思い出して不安に陥る。その板挟み。
だから鉱石の護符を寝床に埋め込んだり魔力を至る所で発散させたりして、あらぬところで暴走しないように努めた。そのかたわらで、本も、服も、己をも使って、我が家をないがしろにしてきた。
あらためて振り返ると、この家で見たもの全てがサルヴィエの試行錯誤の結果なのだと腑に落ちる。
空回らざるを得なかったサルヴィエの今までを思うと、自然と握った手に力がこもった。
「君と話してようやく自分が何に怯えていたのか気付いたよ」
サルヴィエは自嘲的な微笑を浮かべた。
「本当は怯える必要なんてなかったんだ。頭では分かっていたのにな」
怯えることはなかった。黙ってうなずく。私もそう思う。
サルヴィエは魔術の抑え方を私にも教えてくれた。自分で分かっていなかったはずがない。
「怯えることで安心して、怯えなくてもいいということに気付こうとしなかった」
それで君に家のことを頼んでおきながら、片付かなければいいと心の奥底で願っていた。
そう付け加えるサルヴィエの声は囁くように密やかで、ばつ悪げに感じられた。
「そんな有様ならいっそ、うわべだけの住み良さなんて初めから求めない方がましというものだ。…………ずいぶんと振り回して悪かった」
私はまぶたを伏せるサルヴィエをじっと見つめた。
少し悲しかった。
彼の謝罪がまるで別れのあいさつのように聞こえたから。
「――片付かなければ忘れていられるなんてこと、ないと思います」
もともと私の答えを求めていたわけではないのだろう。サルヴィエは強張った表情で首を振る。
「分かるもんか」
「分かります!」
だって。
「散らかってた時のサルヴィエさん、快適そうだったとはとても思えません」
初めて訪ねた時、苦々しい顔で家のありさまを説明してくれたサルヴィエの顔は忘れられない。
あの頃の床面積が半分埋まった廊下を思い出す。初めてはそういう趣味の人なのかとさえ思いもしたが、今ではそうでないと分かる。
本や家財をあれだけ乱雑に扱っていても、本心では心苦しかったに違いない。
「無理やり思い出さないようにしていても、それと気持ちよく忘れられるのとでは、別だと思うんです。サルヴィエさんが今片付けに悩んでるのは、昔のことと向き合って、ちゃんと忘れようとしているからじゃないですか?」
もちろん、幸せの形なんて一口に言えるものではない。
それでもサルヴィエは私を、掃除婦を雇うことを決めたのだ。それが答えじゃないか。綺麗にならない方がましだなんて言わせない。この上自分を追い詰めるのは間違っている。
すべて吐き出してから、つい興奮してしまっていたことに気付いた。
「……すみません」
「いや……」
すっかり静まってしまった食卓でお茶に口を付ける。すでに冷めていた。
サルヴィエはもう打ち沈んだ表情はしていなかった。毒気を抜かれたような顔をして、視線をテーブル上に彷徨わせている。何を言っていいのか分からないのかもしれない、けれど部屋に戻ろうとする様子もない。
……私のせいで気まずくしてしまったかもしれない。だけど黙っていられなかったのだ。
この何か月かの付き合いで、生活を共にして、一緒に家を片付けた。そしてサルヴィエの過去を聞いた。下手すると本当の家族でもしないんじゃないかというくらいに相手のことを知って、もうサルヴィエのことを他人だとは思えなくなってしまったのだから。
胸の鼓動が落ち着くのを待ってから再び口を開く。
「サルヴィエさんには理想の家ってありますか?」
雑談なんですけど、と前置きして、私はサルヴィエに訊ねた。
サルヴィエは怪訝そうに眉をひそめる。
「何を言うんだ、家に好きも嫌いも……」
サルヴィエは途中で言葉を切り、「ああ」と呟いた。私はうなずく。言わんとすることはわかってもらえたようだ。
前にも話したことだ。当人の理想が少しずつ暮らしを作る。
私たちはどのように家を片付けるかという面からそれを実行してきた。
……だけど、本当はこのことを一番に話し合うべきだったのだろう。
「そんな難しく考えなくていいんです。こういう家具が欲しいなとか、どんな景色の土地に住みたいなとか、もっと賑やかなところがいいとか。できるできないはこの際無視して、好き嫌い、ありませんか?」
サルヴィエの答えを聞く前に私はつらつらと述べる。
「私はそうだな……一人部屋があるのが嬉しいですね」
前にいたことのある商家のお屋敷では同性の使用人と相部屋だった。慣れればそれも楽しいけれど、やっぱり自分だけの空間があるのはいいものだ。
「窓に菜の花色のカーテンがかけられたらいいな。庭にお茶が飲めるテーブルを置いたりして、外は一面草原が見えたり」
「羊飼いにでも転向するのか」
「想像の話ですよ!」
空想だから何でもありだ。空想の中なら小綺麗な農園を持ってもいいし火吹き犬を飼ったっていい。もちろん、膨大な蔵書を持つことも。
黙りがちだったサルヴィエは、それで口が動くようになったのだろうか。ぽつりとこぼす。
「賑やかでは……なくていいな。あまりうるさいのは好きではない」
その口から回答が聞けるのがうれしくて、私はつい身を乗り出した。サルヴィエは言葉を続ける。
「それから、糸杉が生える土地がいい」
「糸杉?」
「魔力を吸いやすいと言われている樹木」
「へえ……この辺の森は樺の木ですよね。あれはそれと比べるとどうですか」
「格段に劣るということはない」
サルヴィエは思い出したように呟く。
「……本が沢山置けるといい」
思わず背筋を正す。
本。サルヴィエの財産の大半を占める物。それは間違いなく彼の根幹のはずだ。
「静かに研究する今の生活は嫌いじゃない。散々ないがしろにしてきたけれど、一冊一冊検めてみてはっきりしたよ。叶うことなら手放したくない」
その言葉を聞けて気持ちが明るくなった。
「じゃあ、この家の暮らしもけっこう合ってたんですね」
「ああ……なかなかどうして、悪くない」
サルヴィエは目を閉じて忍び笑いを漏らした。その声は夜の湿り気に満ちた食堂に柔らかく響いた。