10.理想の家(1)
その後夕食は粛々と済み、サルヴィエと私はそれぞれ早々に自室へ引っ込んだ。
そして。
眠りについてからしばらく経った頃、私は物音を感じて目を覚ました。
仰向けのまま視線を動かして枕元の窓を見上げると、小さく切りとられた空には細い輪郭の月が浮かんでいた。濃紺の空には白む気配はない。まだ夜中だ。
物音の正体は風の音らしかった。このあたりでは夕方になるとよく風が吹く。町の向こう側を流れる川から冷たい空気が運ばれてくるのだ。夜まで強い風が吹いているのは珍しかった。
外では木々の梢がざわめく音が鳴り響き、時折ひときわ強い突風が屋根裏の窓枠を揺すぶってガタガタと音を立てる。それでも嵐になるほどの暴風ではないようだ。ただの風と分かれば気が抜けた。
だが微かな振動は伝わるので迫力がある。壁がみしりときしむ音が鳴った。この家も風で倒れるほどやわではないだろうけれど、音が気になってしまって寝付きづらい。
目も冴えてしまってもうひと眠りする気にもならなかった。
眠らずにぼんやりしていると昼間のことが浮かんでくる。
サルヴィエは疲れてしまったのだろうか。
ここ数日のがんばりを見ていると無理もないことだと思う。サルヴィエはここのところ、とりつかれたように蔵書の整理に没頭していた。当初は片付けを私に丸投げするほどだったのに。
それは終着点が見えてきて気合いを入れ直したからだと思っていた。
なのにサルヴィエは片付ききらなかった部屋を「これぐらいが身の丈に合う」と言った。
まさかあんな風にあっけなく手放すなんて。
……もしかすると、限界が来た、ということなのかもしれない。
昨日今日の身体の疲れだけではない。この数か月の片付けでサルヴィエを取り巻く環境は急激に変化している。それは例えるなら住居を転々とするように大変なことだろう。
そのことで神経をすり減らされて、いよいよ我慢しきれなくなったのかも。そもそも彼は最初から物の処分に渋っていたのだ。
そうなると、私にも少しは責任がある。
私物を整理するように説き伏せたこと、それに、彼の様子に気づかなかったことも。
「悔しいなあ……」
心の声が独り言に漏れる。
あんな風に諦めさせてしまっては、家をきれいにするために呼ばれた私は立つ瀬がない。
やり場のない気持ちをごまかそうと寝返りを打つ。
すると、ふいに目の前を光の粒がふわりと横切った。
思わず腕を持ち上げて掴む。それはなんの感触も残さずに手の中で消えた。
私は燐光の残滓を負うように身体を起こしていた。
光の粒は床板をすり抜けてきて、綿毛のように屋根の方にのぼってゆく。宙を遊ぶその微光には見覚えがあった。
先日サルヴィエが魔術を使う時に見せた青白い霧。
「…………」
私はベッドから降りて掛けてあった上着を掴み、音を立てないようにはしごに足を掛けた。
これまでにあの光を目にしたのは魔術が使われたときだけだった。
この森に魔術師はひとりしかいない。
私は勝手口の扉をそっと引き開けて外に出た。
上着に袖を通しながら玄関の方へ右回りに歩いて行くと、案の定、彼はそこに居た。
家の周りをぐるりと取り囲む空き地と、さらにその周囲に広がる森。サルヴィエは森に入りこんでしまいそうなほど限りなく近づき、切り株に座って梢を仰いでいた。丈の長い麻の寝間着を着ている。上着などは何も羽織っておらず、暖かい季節とはいえその姿は寒々しい。
背の高い木々を背景に座り込むサルヴィエはいつもよりもずいぶん小さく見えた。
私はサルヴィエのそばに駆け寄った。
足音が風に紛れて聞こえていなかったのか、それとも分かっていて反応しなかったのか、サルヴィエは近くまで行ってやっと振り返った。
「ラーヴァさん……こんな夜中に何かあったのか」
「風の音が気になって下りて来たんです。やっぱり魔術だったんですね」
私は彼の隣で同じように森を見上げた。
木々が鳴動するほどの強風は彼の魔術が起こしたものだった。夜の森が真っ黒な生き物のようにざわめくのに合わせて、無数の光の粒子が空に舞い上がってはかき消える。まるで神々の御許に還って行く魂のように、それは神秘的に見えた。
サルヴィエは体を森へと向き直らせると、感情の見えない声で囁いた。
「眠りを妨げて悪かった」
「いいんです。……すごいですね」
向き合わずに並んで森を見上げながら話す。
森の木々を揺すぶって抜けてゆく風は、今までに見たサルヴィエのどの魔術よりも強く大きい。
サルヴィエは夜風のようなつぶやきを発する。
「時々、訳もなく力を発散したくなるんだ」
それを聞いて前にサルヴィエが話してくれた「暴発」の話が脳裏に浮かぶ。
魔力の制御ができないないような子供、魔術の修練を行っていない者は、時に意思ならず甚大な魔術を行使してしまうことがある。
そしてそれを防ぐためにあえて魔術を使うことがあると。
サルヴィエは声無く笑う。
「憂さ晴らしのようなものだ」
「憂さ晴らし……」
それはやっぱり、連日の片づけに嫌気がさしたからだろうか。
言うつもりはなかったのだろう。
サルヴィエは一度私を見て、気まずそうに「気にしないで」と呟いた。
――踏み込んでいい問題ではないかもしれない。
口を開くかどうか悩んだ。人の繊細な心中に触れるのがためらわれたからでもあるし、私自身のためでもある。
不安なのだ。
私は良かれと思って片付けを進めてきた。サルヴィエが本心では面倒がっているのは理解していても、心を鬼にしなければならないと思っていた。
それが結局は彼にとって負担でしかなかったのなら嫌だった。
それを突きつけられて受け止められる自信がなかった。
けれど、これを避けては解決しない気がする。
私は気にかかっていたことをぶつけた。
「それは、家が片付いていくのと関係ありますか?」
「は……?」
サルヴィエは森に向けていた視線をこちらによこした。
とっさに眉間のしわを解いた表情は、思いもよらないと言わんばかりだった。
変なことを言っているとは思う。
サルヴィエは自分から私を掃除婦として雇ったのだ。整った環境を厭っているわけがない。片付けにもちゃんと私の言うように協力してくれる。
だが。
彼は以前、家が散らかりだしたきっかけを訊ねた際こうも言っていた。「散らかっていた方がいっそ楽だ」と。あの時は単なる利便性の話だと思って流したけれど、もしかするとあれは気持ちの話だったのでは。
それに、本が片付ききらないと分かった時の奇妙な落ち着き。
「家が片付くの、本当は嫌だったりしませんか?」
もちろん頭では片付けの必要性を分かっているのだろう。
けれど心の中では、サルヴィエはこの家をどうにかしようとは思っていないんじゃないだろうか。家が片付かないことに、ほっとしているんじゃないだろうか。
「もちろん私の考え違いならそれでいいんですけど……」
私の考えたことは全て早とちりかもしれない。サルヴィエの悩みの種は何も片付けだけではない。研究のことでも私の知らない悩みはあるだろうし、それこそ自身の魔術のことだって。
けれど、彼が思いつめていくのは、片付けが進むのと同時に起こったことだ。無関係とは思えなかった。
サルヴィエは虚を突かれた顔のまま口元を押さえ、しばらくそのままでいた。
私は彼の返答を待つ。自身の膝を見つめる彼の表情は、立ったまま見下ろす私からは見えなかった。
やがてサルヴィエは「すまない」と囁いた。
「いえそんな、謝らないでください」
謝らせたかったわけじゃない。
「嫌なわけではないんだ。ただ……」
「ただ?」
「…………昔の家を思い出す」
想定していなかった答えに私は一瞬反応しそこねた。が、すぐに気付く。
彼の言う昔の家で私の知っているものはひとつしかない。
「子供の頃の家のことですか」
サルヴィエはうなずいた。
魔術の暴発で半壊させてしまったというかつての家。
気づいたはいいものの、片付いていくこの家がそれを連想させるというのがわからない。それはいい意味だろうか、それとも悪い意味なのだろうか。
私は首をひねる。サルヴィエはぽつぽつと言葉を重ねていく。
「何が似ているわけではない。ただ僕は、住み心地の良い家、自分だけの家というものを他に知らない。それで重なるところがあると錯覚しているだけなのだろう」
サルヴィエは私に説明しているというよりも、まるで言葉にすることで自分と相談しているようだ。
「そうだ、自分の家だと思うとあの家を思い出してしまう。……片付かないうちは忘れていられた」
それを聞いていると、サルヴィエの言わんとすることがだんだん分かってきた。
この人はあまり自分の心を語らない。だから気付かなかったけれど、子どもの頃の苦い記憶は、思った以上に彼の心を占めている。
彼は幼い頃の家が嫌いなわけではない。むしろ思い入れがあって、だからこそ思い出したくないのだ――暴発の記憶と地続きだから。
そして、家を散らかしてしまうのもきっと無関係ではない。
「……ああ、そうか」
サルヴィエは今初めて気が付いたと言うように、気の抜けたつぶやきをこぼした。
「どうせ壊れると思っていたんだな」