2.協力願い(1)
「これはすごい」
焦げ付きを洗い落とし元の美しさを取り戻した鍋の山を見て、魔術師は静かな表情のまま感嘆の声を上げた。
どうだ見たか。契約成立直後、三時間かけて磨いた鍋だ。
魔術師サルヴィエに雇われることが決まったはいいが、片付けを依頼された邸宅(というには小ぢんまりしている)は著しく衛生環境が悪かった。
メイド魂に火が点いて勢いのまま掃除に着手してしまった今、私は燃えていた。断固この家を快適な居住空間へと磨き上げてみせる。
ただ無念なことに腕によりをかけて晩ごはんを作るには遅い時間になってしまったので、初めての食事は食料庫にあった酢漬け野菜とビスケットで簡単にお茶を濁すことになった。
ちなみに流し台はある程度片付いたが、床に積み重ねられた本や放置された雑貨にまでは手を出せていないので、足の踏み場はそれほどない。
サルヴィエは向かいに座り、果実酒の瓶を開けながら言う。
「話が決まったばかりなのに重労働をさせることになってすまない」
「いいえ! どうしても放っておけなかったので」
私がいてもたってもいられなくて家主も顧みず手を付けたのである。こちらこそ掃除婦怒りの鍋磨きを見せつけてしまい申し訳ない。
「もう夜も遅い。君がいいようであれば今日から家に住まないか」
「それでけっこうです。宿は引き払ってきてるので」
そういうわけで、さっそく今晩からこの家に住み込むことになった。
軽食の後、私の住み込み部屋を案内してもらうことになる。
「君の寝床は屋根裏部屋だ。そこは大丈夫なはずだから」
やっぱり一階が大丈夫でない自覚はあるんだ……。
思わず口に出そうになった言葉を危うく飲み込んで、私は承知しましたと従順に即答した。家主の私物がそこかしこで縄張りを主張し続ける場所から、早いところ手荷物を置いて一息つける居場所に預かりたい。
屋根裏の入り口は食堂にあった。廊下に繋がる扉の上を横切って設置されているはしご段だ。しかしこともあろうに踏み段には瓶やら小型本やらが乗せられ、個性的な棚として活用されてしまっている。
サルヴィエは雑貨を一つ一つ回収し、階段下の床にまとめて置いた。
「どうぞ」
「どうも……」
そして私を上へと促す。またしても止める間がなかった。
サルヴィエに勧められて私ははしごを上った。
天井板が目の高さまで来たところで、薄暗く開けた空間が目に入る。
屋根裏部屋はしばらく誰も入らなかったせいか、ほこりっぽいけれど散らかってはいなかった。入り口がふさがっていたため散らかす余地がなかったのだろう。不幸中の幸いである。
床は食堂と同じくらいの大きさだ。物がほとんどない分広々して見える。天井は低いが、そう大きくない私の体格なら立ち上がっても苦にはならない。
隅には小さな机が、そして部屋の中央を横切るようにしてベッドが置かれていた。その他に家具らしいものは見当たらなかった。
「前の家主が置いていった家具なんだ。少し小さいけど合えばいいが」
少し時間をおいて上って来たサルヴィエは腕に毛布を抱えていた。ありがたくお借りする。
彼が立ち去った後、念の為持参した布巾で寝床周りと鞄を置く場所だけ軽く拭ってから、古いベッドに横たわる。
街なかで部屋を借りる時、たいてい屋根裏というのは一番安く、一番住みづらい部屋だ。何階層もある建物だと上り下りが大変だし、室温が上がったり下がったりして快適じゃない。
だけどこの家ならほんの一階上がるだけだし、枕元には立派な窓がある。森の木々の緑が、そして星々の灯る夜空がよく見える。何より物がない。
これは案外、悪くない仕事場かもしれない。
今後の展望に思いをはせながら、私はいつの間にか眠りについていた。
翌朝、私が台所に降りた時、サルヴィエはまだ起きてきてはいなかった。
前日の話によれば朝食は食べないということだから、普段から朝が遅い人なのかもしれない。彼が食べない時でも私の食事は自由にしていいということだったので、なるべく音をたてないように軽食を取った。
昨夜と同様の簡単な食事を済ませ、すぐ井戸端に出て皿を洗う。使ったものはすぐに片付けるようにする。その習慣をつけるのが部屋を散らかさないための秘訣だ。
きっとかの魔術師にはその習慣がないのだろう。だから外付けの掃除習慣として私を雇ったのだ。大胆な手段だとは思うけれど合理的なのかもしれない。
そう、この家全体をきれいにするのが雇い主の願いなわけだが。
部屋の中を見回してみる。
この食堂はそう広くない。壁際に流し台と作業台、小さな炉、扉のない棚、そして屋根裏に続くはしごがあって、残ったスペースにテーブルと椅子が二脚置いてある。そうなるとテーブルの周りをぐるりと一巡りするくらいの余白しかないのだが、その空いた床にはサルヴィエの私物が散乱している。
硝子のはまった勝手口の扉と窓があるからそれなりに明るくて開けた印象だが、散らかっているものは散らかっている。
見て見ぬふりをしていたが汚れの方もけっこうひどい。棚のほこりが気になるし、炉なんか何かをこぼした後がこびりついたままだ。
……どうしよっかな!
私は思わず天井を仰いだ。隅にクモの巣が垂れ下がっていた。
掃除婦としてサルヴィエに雇われたはいいが、私は片付けの専門家ではない。無策にもほどがある。今までにしたことがない手合いの依頼だ。
一口にきれいにするとは言うものの、掃除と片付けは別物だ。
掃除はほこりや泥など毎日たまる汚れをとりのぞくこと。
片付けは物を正しい場所に収めること。
互いが互いを支える作業ではあるが、それぞれ行うことは別なのだ。
私が以前働いていたのは大きな商売をしているお家だった。
使用人は何人もいたが貴族のお屋敷ほどの規模ではなかったので、役割分担がはっきりしていたわけではなかった。料理人や馭者のような専門職はそれぞれの持ち場があったけれど、私のようなただの下働きは違った。洗濯係や給仕係が明確に分かれているわけではなく、手の空いた者が手の足りない仕事をする感じだった。
厨房の雑用をしたり洗濯物を干したり主人一家の用事を言付かったりと大忙しだったから、一通りのことはできると言えばできる。
そんな中でも掃除は毎日の業務だったから慣れている。
だけど「片付け」となるとまた別だ。
前のお屋敷では廊下や居間に物が散乱していることはなかったから普通の掃除だけで済んだ。けれど、この家では片付けから始めなければならないことになる。
こんなに物で溢れた家を片付けるのは未経験だった。
それでも、引き受けたからにはやらないわけにはいかない。
食後の後片付け。厨房や物置など裏方の整理整頓。あと主人の衣替え。
私が知っている中で片付けらしいことを数えて、応用できそうなやり方を抜き出して想像してみる。……なかなか骨が折れそうである。
だけど経験は生かせそうである。大丈夫。どうにかなりそうだ。
そうと決まればできることからやってしまおう。
私はさっそく取り掛かることにした。