7.講義-暴発(2)
サルヴィエの話をまとめると、溜まった魔力を元にして、制御方法を知らぬまま無意識に魔術を使ってしまうことを「暴発」というらしい。
手加減のできない子供が使う未知の力。
それがどれだけ危ういものであるかは魔術について知らない私でも理解できた。
例えば、魔術には炎を操るものが存在する。サルヴィエが炉に火を入れてくれたのがそれだ。町でも硝子工房や食料品の組合に雇われていたりする身近な魔術だ。
火打ち金も使わず、一呼吸で火を熾す業。それは私たちの暮らしを豊かにする一方で、危険をもたらしもする。ただでさえ火の扱いは危険なのだ。物の分からない子供が何の気なしに火を点したりしたら。
さらに恐ろしいことに、火の魔術は蝋燭の炎なんかと違って、周りが気を付けていてもどうにもならないのである。
「それは、誰にでも起こることなんですか?」
魔術の暴発が訓練を受ける前の子供に起こると言うのなら。極端な話、魔術の使い方を知らない私でも起こしかねない。はっきりしないのは怖かった。
サルヴィエはなくはないと答えた。
「僕にも起こらないとは言い切れない」
「えっ……」
予想外の回答にぎょっとした。移り住んで早一か月、ここへきての新事実に驚きが隠せない。私は今まで魔術が暴発するかしないかの家で何も知らずに寝起きしていたのか。とんだ爆心地に定着してしまった。
「そう心配するな。あるとは言っても『ないとは言い切れない』という程度のものだ」
サルヴィエは目元のこわばりを解き口の端を微かに歪めた。笑ったようだった。
「実のところ、訓練を積んだ者に起こることはほとんどない。断定を避けているだけだ。詭弁と言えば詭弁だが、学問にはこういう言葉遊びも要る」
つまり大人にはそうそう起こらない、ということのようだ。学者の世界の言い回しはややこしい。
「僕にももう起こることはないと思う」
それを聞いてほっとする。
その一方で、「もう」。その一語が気にかかった。
「……昔あったんですか?」
サルヴィエは虚を突かれたように視線を上げて私を見た。
そしてすぐに目を伏せる。
「もうずっと昔だ」
サルヴィエの生まれ育ちはこの森でも、町でもなく、やや離れたところの都市部であるという。
「それが起こったのは七歳の頃。魔術師の片鱗があると判明して間もない頃だった」
まだまともに魔術を使ったことはなく、師を付けるべきかと家族が思案していた時のことだった。
家族と共に家にいた時、前触れなく魔術が爆ぜた。
突如轟音が響き、とっさに目をつむると同時に荒れ狂う風を感じたという。
「気が付いたら煉瓦壁を一面崩していた」
「おう…………」
予想を上回る経験談に言葉が出なかった。
前に見せてもらった小さなつむじ風や洗濯物をはためかせた涼風とは桁が違う。それはもはや災害だ。
サルヴィエは続ける。
「なにぶん子供だったから、どうしていいか分からなくて、縋るような気持ちで両親を振り返ったんだ。そうしたら部屋の中もめちゃくちゃになっていた」
そこは普段なら家族が集まって団欒をする暖かい居間だった。
しかしそこにはもはや日常の気配はなかった。壁の穴からは冷たい外気が吹き込んで乾いた音が響いていた。壁紙はずたずたに切り裂かれ、重い長机はひっくり返り、茶器は床に落ちて割れ、絨毯を濡らしていた。
そしてその奥で、両親が兄弟を庇いながら、怯えた目でサルヴィエを見ていた。
「両親にもどうにもならないことがあるということを、僕はその時初めて学んだ」
サルヴィエは静かに息を吐いた。深い青緑色の目は遠い過去を通し見るように、ここでないどこかを見ていた。
私は何と答えたらいいかわからなくて膝に視線を落とした。聞いているだけの私まで理由ない不安に襲われた。
他ならぬ親に拒絶を示される。
十にも満たない年の子供にとって、それはきっと、神に見放されるのと同じことだ。
壁が崩れたというのなら被害は家族だけに留まらなかったかもしれない。しかしとてもこれ以上訊ねる気にはならなかった。サルヴィエが語ることが全てだと思うほかなかった。
軽率に訊ねたことを後悔した。
「対策はいくつかある」
次に口を開いたとき、サルヴィエの声にはもう寂寥の気配はなかった。
「さっきも言ったように魔力の使い方の制御を覚えるのが第一。それでも万が一の時、できる限り被害が小さく済むように、魔力を溜め込まないことも重要だ」
「あ……だからいつも」
「ああ」
それでやっと、サルヴィエが家事をよく手伝ってくれる理由とつながった。炊事洗濯を手伝ってくれるのは魔力を発散させるためだったのか。
おそらく彼は私が来る前までも、そうやって自分の面倒を見ながら魔力を発散させていたのだ。
それだけじゃない、とサルヴィエは続ける。
「魔術師は余計な魔力を蓄積しないために、草木や鉱物を周りに置くことが多い」
ある種の植物、鉱物は魔力を吸うと考えられているそうだ。人間と同じく魔力の器を持つのだという。
「ここの森は魔力をよく吸う」
「それでこの森に……?」
「……そうだな」
サルヴィエは何度も言った。魔術の暴発は次第に起こらなくなると。
それなのに彼は森の中に身を置き、ことあるごとに魔力を消費しようとする。
それは立派な魔術師になった今でも、暴発を恐れているからではないだろうか。
「サルヴィエさんはそれで大丈夫なんですか」
何についての「大丈夫」か、自分でもよく分かってはいなかった。ただ口をついて出た問いだった。
「暴発で魔術師自身が巻き込まれる事例はめったにない」
サルヴィエはこともなげに答えた。
「防衛本能が無意識に力の矛先をそらすのだろうと考えられている。『暴発』とはいうものの、結局魔術は意思で行使するものなんだ」
そしてサルヴィエは鼻を鳴らす。嗤うようでもあり、すすり泣くようでもあり、しかしその表情は変わらない。感情を推し量ることはできなかった。
目を伏せ、これまでと変わらない淡々とした語調のまま、サルヴィエは言う。
「仮に暴発を起こしたとして、君を危ない目に合わせたりはしない。大丈夫だ」
そういうことを訊きたいのではない。確かに自分の身の安全も考えはしたけれど、今心配しているのは起こるとも知れない暴発のことじゃない。
サルヴィエの心遣いは分かっても、今はそれがあまりうれしくなかった。
「――せっかくの食事が冷めてしまうな。いただこう」
「あっ……はい!」
それは話の終わりを示す合図だった。
それを皮切りにして、炉で熾火の爆ぜる音、夜風の音、今まで耳に入ってこなかった周りの音が世界に戻ってきた。
熱いうちに並べたパイは長話をしているうちにぬるくなってしまったようだ。半分に分けた切り口からはもう湯気は立っていない。
サルヴィエはパイを一口大に切り取って口に運んだ。
もぐもぐと口を動かして飲み込み、それきり黙ったまま動かなくなってしまう。
「……あれ、不味かったですか? もしかして卵の殻でも……」
「いや、そうじゃないんだ」
私も慌てて一口食べてみる。やや冷めてはいるが食べるには適温、とりあえず異物感はない。皮のぱりぱりとした歯ざわりにも香辛料の溶け込んだ肉汁の旨味にも変わったところはない。塩気もいつも通りだ。
「変なわけじゃないんだ。ちゃんと美味しい。ただ」
「ただ?」
「味をより鮮明に感じる、とでも言ったものか」
「何も作り方は変えてないですけど……冷めた方が好みとか?」
「そういう感じではなくて……」
調理法も材料も変わらず味が鮮明になるなんて変な話だ。
パイは持ち運んだり作り置いたりできる分冷めても味が落ちにくい。それに今日のは冷めたといっても食べるにはちょうどいいくらいだ。
というかサルヴィエは日ごろから本を片手にだらだら食べているので冷めるのはいつものことなのである。変わったのはむしろ感じ方のほうではないのだろうか。
首をひねるうちに思いついた。
「あ、もしかして、食事に集中してました?」
サルヴィエは怪訝そうに首を傾げた。言葉足らずの自覚はあったので付け加える。
「ええと、つまり、今までは片手間に食べることが多かったじゃないですか? それで本の方に意識が向いて、味わって食べるのがおろそかになってたというか」
食事の席に本を持ち込まないことを提案してからしばらく日が経った。サルヴィエは提案に応じ、しばらく食事時に本を開くことはなかった。
それがだんだん習慣になってきて、認識に影響したのが今なんじゃないだろうか。
「今までは上の空で食事していたから分からなかったということか」
私の仮説を披露するとサルヴィエは考え込んだ。
「……失礼なことをしていただろうか」
「いやあ……」
そんなことないですよ、と、私が擁護するのもなんだか妙なものである。
彼のお行儀が悪かったのは事実だ。だけど私はサルヴィエをそういう人だと早々に割り切っていたので、特別胸を痛めていたわけではない。
そんなことより。
「食事を楽しんでもらえるようになったのなら嬉しいですよ」
ありがとうとかは言ってくれるけれど、サルヴィエが自分から感想を口に出すことは珍しい。
それでもやっぱり、食べて喜んでもらえるということは作り手冥利に尽きるものだ。同じテーブルにつくことを許してくれて食事を共にする雇い主なんていたことがない。だからますますそう思う。
ただでさえサルヴィエの凛々しい顔は気落ちすると怖い顔になりがちなのだ。食事を楽しんで心穏やかにしていてくれたほうがうれしい。
「――休養と栄養をよく取るのも、魔術を暴発させないための秘訣なんだ」
サルヴィエは最後にそう説明すると、普段よりいくぶん柔らかく表情を緩めて見せた。
「助かっているよ」
私は笑い返す。そして、うすうす感じていたことを改めて強く感じた。
きっと私にはただ家をきれいにするだけじゃなくて、それ以上に雇い主のためにすべきこと、できることがあるのだ。